<樹々の生まれ変わり>

<樹々の生まれ変わり>

 今年(2003年)の4月、アーティストで作家のAKIRAさんと会った。AKIRAさんのお書きになった『アヤワスカ』という本を読み、一度お会いしてみたいと思いコンタクトをとってみたのだ。AKIRAさんは日光に住んでいて、私も週一回アルバイトに栃木の病院に通っていたので、では一度宇都宮で飲みましょう、ということになった。

 ちょうどそのころある雑誌にAKIRAさんと田口ランディさんの対談が載っているのをみた。そこに掲載されていたAKIRAさんの写真を見ると、トレッドヘアーと呼ぶらしいが、細かい三つ編みをまるでメドューサの蛇のように振り立てた髪型をしていて、かつてニューヨークでドラッグの売人をしていたという恐るべき経歴の持ち主でもあり、これはちょっとやばい人かな、と思いながら待ち合わせの場所に向かった。

 しかし待ち合わせ場所であったJR宇都宮駅の改札を出たところに待っていたAKIRAさんの目を一目見たとき、小心な私の杞憂(きゆう)はきれいさっぱり吹き飛んだ。そう、まるで少年のような目なのだ。例の髪型の上さらにヒゲまで生やしためっちゃ濃い外見なのだが、その目は幾多の生の汚濁をくぐりながらも、いかなる汚染物質にもけっして染まることのなかった硬質な輝きが宿っていた。

 アルコールや薬物依存の泥沼からはい上がってきた、この世の地獄をみてきた人たちのなかにやはりそういう目をしている人たちがいる。アルコールや薬物への過度の耽溺は、宗教的な行為に近いものがあるといわれている。

 この腐れ切った地上の重力をアルコールやドラッグの力を借りて脱出し、もう一つの世界へとアクセスしようとする理性を越えた衝動がその背景にある。ただ多くの者はその煉獄から抜け出せないままに終わるのだが、そこから奇跡的に帰還してきたものたちをサバイバーと呼ぶ。AKIRAさんもたぶんサバイバーなのだ。

 とある居酒屋に落ちつき、飲み始める。AKIRAさんが田口ランディさんとの対談のなかで、これからの人類にとっての重要な指標となるものとして「ネイティブ」「シャーマニズム」「ドラッグ」という3つのキーワードをあげていたが、じつは私も「ネイティブ」「スピリッチュアリティ(本当はシャーマニズムといいたいのだが、この言葉にはまだまだ誤解と偏見があって、小心な私はまだ使う勇気がない)」「ローライフ(収入も少ないが、その分ストレスも少ない生活)」の三つのキーワードをこれからの未来へ向けての手がかりとして考えていたところだった。

 そのことをやや興奮しながら話した。AKIRAさんは小さな手帳を取り出して、律儀にもいちいちメモをとっている。そこはさすが作家だなと思った。そのほかなにを話したかよく覚えていないが、AKIRAさんが煙草の葉っぱと紙を持ち出して、目の前で器用に手巻きの煙草を作って、うまそうにくゆらす姿が印象的だった。

 私がAKIRAさんに会いたいと思ったのは、AKIRAさんのお書きになった『アヤワスカ』という本のある部分に衝撃を受けたからだ。この本は、アヤワスカという南米のネイティブの間に伝わっている聖なる幻覚植物に惹かれ、はるばるアマゾンのジャングルまでアヤワスカを求めて旅をするというノンフィクションの体験記である。

 そのクライマックス、AKIRAさんは様々な不思議に導かれ、アヤワスカを手にたった一人でアマゾンのジャングルの中に入り、殺人蚊に襲われる恐怖と闘い、断食をしながらアヤワスカのセッションを執り行う。

 アヤワスカはとてつもなく苦く、また副作用として強い嘔吐や下痢をともなうものなので、毎日バケツ一杯ほどもあるアヤワスカを飲み下し続けるその姿は、苦行僧のようにも、なにかとてつもない刑を受ているもの姿のようにも思える。あるいはたった一人で孤独なイニシエーションを執り行っているようにも・・・。

 その三日目にAKIRAさんに訪れたビジョンは強烈なものだった。AKIRAさんは人間の欲望によって、無抵抗に焼きはらわれていくジャングルの樹々と一体化する。身動きがとれないまま、燃やされる身を捻られるような苦痛の中、殺された樹々たちの魂が一斉に抜けだし宇宙空間にただよう様子を幻視する。そして樹々の精霊の声を聞く。樹の精霊からAKIRAさんへののメッセージはこういうものだった。

 過去何十年にもわたって、樹々たちは人間に一方的な木々の虐殺をやめるようにさまざまな働きかけをしてきた。しかし、どうやっても人間たちの行動を止めることはできなかった。それで樹々たちは、その虐殺をくい止めるための最後の手段をとることにしたのだという。その最後の手段とは、殺された樹々の霊がいっせいに人間としてこの世に生まれ変わって、その蛮行を人間内部からくいとめようというのだ。

 私はこの下りを読んだとき、すぐにいま日本で増え続けている不登校やひきこもりの人たちのことを連想した。彼らこそ、まさにこの木々たちの生まれ変わりなのではないか。その妄想を話したくて、ぜひ一度AKIRAさんにお会いしたかったのだ。

 そう考えることは、あまりにも不登校やひきこもりというものを美化してしまう危険があることはわかっている。一人一人をみていけば、混乱と葛藤のなかでもがいている姿しかみえてこない。しかし不登校経験のある米木太一さんが語っていたこと(去年の不登校新聞に掲載された手記)、『本当にひきこもっているのは誰か』というタイトルの短い文章だが、そこで彼はこういう問いかけをしている。

 いまや人類全体が自然と切り離され、宇宙的なひきこもり状態にある。そういう人類全体からまずひきこもることこそ、宇宙的なひきこもりからの回復の一歩なのではないか、と。

 日本で百万人といわれる若者たちが、この社会につながれたコンセントをひそかに抜きはじめている。ひとりひとりは自分がなにをしようとしているのかわからないまま、いまや無視できない数の若者たちが、無言でこの社会へ「ノー」をつきつけている。

 次に彼らがどこにアクセスしようとしているのかはまだみえてこない。しかし私は彼らに会って感じるのは、「高貴な」とでも形容するしかないある波長を持ったひとたちだという印象である。やさしさと思いやりに満ちた、だからこそこの社会の中で生きていくだけで傷ついてしまうようなそういう柔和なスピリットを共有する人たち。

 私はひそかにこの現代日本のただ中に、太古のネイティブのスピリットを持った新たな「部族」が誕生しつつあるのではないか、との思いを深めている。

 とても穏やかで静かなエネルギーをもった、それはまるで群れることなくすっくと立つ一本の樹のようなたたずまいを持った人たちが、時代を変えるべく集団でこの世に転生してきたように思えてきてならないのだ。そして彼らに共通する、その高貴な魂の震えのようなものを、この目で会ってみて、 AKIRAさんにも確かに感じることができたように思う。

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