<いつか恋が愛に変わる日まで>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)

<いつか恋が愛に変わる日まで>

 愛というものがよくわからない。恋については知っているつもりだ。恋の頂点で感じるあの世界の濃度と意味が増大し、しぼりをきつくかけた写真のように、くっきりとした濃淡によってみるものすべてに深度を与える魔法のことは、過去何回か体験している。

 それは一種の神秘体験であるといえるだろう。誰でも恋することだけで手に入れることのできる神秘体験である。神秘主義者たちはそれを真の神秘体験のイミテーションに過ぎないというが、少なくとも普通の人間が体験できるそれは最大のエクスタシーの体験の一つだ。

 もし恋という感情を知らなければ、私たちはもっとのどかにこの地球での生活を送れるだろうし、犯罪は今の10分の1くらいに減るかもしれない。少なくともハリウッド映画がこんなにのさばることだけはなかっただろう。

 ひとたび冷静になって恋を成分分析してみれば、喜びよりも苦しみや嫉妬や疑念のほうがはるかに多く含まれているのがわかるだろう。片思いの焼けつくような祈りをいくら積み重ねていっても、それが報われることがないということを知ることによって、あるいは希望と憧憬(しょうけい)にはじまるそれが、いつか嫉妬や疑惑によってあぶりたてられ、もはや持ち続けるのが苦痛でしかないものと変わり果てたとき、それをきっぱりと手放すことによって、人は万能感に満ちた少年時代からひそかに決別していくような気がする。

 かつて青春時代にくりかえし聴いていたものに、カーペンターズの『ア・ソング・フォー・ユー』というアルバムがあった。このレコードのA面には、恋のはじまりから終わりまでが順序よく歌われている。最初は「スーパースター」という曲で、これは一目惚れの体験を描いているのだろう。ここに私の王子様がいたという、あの恋のはじまりの世界が一変する感覚を、今は亡きカレン・カーペンターが切々と甘く歌い上げている。

 次の曲が「トップ・オブ・ザ・ワールド」。恋の世界の頂点まで駆け登り、やや脳天気に恋の喜びを賛歌している。しかしもう次の曲では 「ハーティング・イーチ・アザー」となって、ささいな感情の行き違いからお互いに傷つけあってしまうという、恋がその頂点から落下しはじめる微妙な瞬間を歌っている。A面最後の曲はそのものずばり「グッバイ・トゥー・ラブ」。そしてこの曲で恋のはじまりから終わりまでの円環は完成する。わずか15分ほどの体験だ。

 それは誰もが生涯のうち何度か体験するなじみ深い、恋の誕生から死までのある意味ではワンパターンの世界を描いている。いかにそれが最高の出会いであると信じようと、恋はいつの時代も同じように生まれ、同じように死んでいく。それは永遠にくり返されてきたとても退屈な物語だともいえる。このレコードのA麺の最後には「失礼してちょっとトイレにいって、すぐもどって来ますよ」という短いコーラスが入っているのだが、失恋して、そうやってバスルームに逃げ込んで、出てきたときはもう新しい恋を期待しているのが私たちという存在なのだと、それは皮肉にも聞こえてくる。

 恋はいつか死ぬ。死んだ恋には誰も二度と振り向きもしない。それは使い終わったテッシュペーパーほどの価値もない。

 恋愛依存症などという言葉があるが、たしかにこりもせず何度も同じパターンを繰り返すというのはアディクション(依存)の特徴だ。アディ クションとは、むなしさ、空虚さあるいは慢性的な淋しさみたいなものを埋めるために、強迫的に常同反復する行為だといわれている。しかしアディクションの対象が、恋愛であれ、アルコールやドラッグであれ、ギャンブルやショッピングであれ、あるいは仕事や子育てであれ、そこで私たちが手に入れようとしているのは、一瞬の輝きというか、生きていることのヒリヒリとするような強度なのではないだろうか。

 それを追い求めるのがライフサイクルにおける青年期の特徴なのだと思う。でもかつては、一生のなかのわずかな過渡的な一時期でしかなった 青春期の濃密な時間感覚を、現代人は一生にわたって追い求め続けていようとしている。生きていることの輝きと強度、それを手放すことが、まるで個体としての死を意味するかのようなおびえに追われて走り続けている。人ごとではない、私もその孤独なマラソンランナーの一人だ。

 でもアルコールの心地よい酔いが、やがて苦い二日酔いになって終わるように、恋もいつか醒めていく。恋の魔法が解けたあと、しばしば恋人 たちは他人以下の関係になる。あれほど、相手の不在のときには「いま、あの人はなにをしているのだろう」と夢想にふけったその相手が、もはや生涯二度と思い出したくもない相手となってしまうのはなぜだろう。それでも私たちは恋の頂点で一瞬味わえる、あの輝きやめくるめきを求めて、また新たなパートナーを探して街をさまよう。

 『万葉集』にかいま見られる恋の形とは、男性の求愛に答えて、女性が「もすそ」の帯を解くこと、つまり共に寝ることであった。平安のころまで、子供は母親の実家で育てる女系社会であり、結婚の形態は「通い婚」という男が女性の元に通ってくるという形だった。男がせっせと通って来なくなればそれで終わりという、恋はまるでイヌや猫の「発情」と同じレベルのものだった。

 『愛について』の著者、ドニ・ド・ルージュモンによれば、恋愛とは十二世紀の発明であるという。十二世紀の南仏のトルバドゥール(吟遊詩人)たちは、貴婦人を神聖化し、それを思慕する騎士たちの思いを歌い上げた。けっして生殖に至らぬある距離を保ち続けること、神への愛をそのまま地上の女性に向けること、それが恋愛という発明であった。しばしば恋の終わりが肉体の交渉の瞬間からはじまることを考えれば、この距離を保ち続けることが、恋愛というとても人間的な倒錯を生み出す最大の仕掛けであることがわかる。それでもその掟はしばしば破られるためにあったのだが・・・。ほんらい生物学的には生殖に仕えるものでしかない「発情」が、生殖から独立し、それだけが目的となってしまう「恋愛」という倒錯は、たしかに人間だけの発明なのだろう。

 やはりこの世紀に詩人たちによって、くり返し歌い上げられ、やがてワーグナーの歌曲にもなった『トリスタンとイズー(ドイツ語圏ではイゾ ルデ)』の伝説が語っているのは、恋とは気まぐれな運命のいたずらによって、人の心を奪い、その自由を奪いつくし、奴隷の状態におとしめるある種の呪いであるというテーゼだ。それについては私も素直に同意したい。

 少年期の世界から、思春期の世界へ移行したとき、なにより変化したことは、それまで一人でいても満ち足りていた世界から、一人でいることの強い欠如感にさいなまれる世界へ不条理にも投げ込まれたという感覚だった。

 桜の花が満開になったとき、あるいは初夏の新緑がまぶしく輝くとき、その美しさに目を奪われながらも、なぜここにその美しさを共に分かちあえる誰かがいないのかという強い欠如感にさいなまれて、その季節はただ悪夢の日々でしかなかった。たぶん、恋の感情を知るより前に、まず焼けつくような欠如の感覚があった。

 恋についてはよく知っているつもりだ。しかしやはり愛というものがよくわからない。

 「愛」などというものは、しょせん存在しないのだといいたくなってしまう。世の中で使われている「愛」という言葉は、男女間の愛にしろ、 母性愛といういい方にしろ、ほとんどがただの発情でしかない「恋」のことか、自己愛の分流でしかない一方的な思いのおしつけのことをいっているだけだ。

 だいたい英語の「LOVE」という言葉がいけない。みそもくそも一緒ではないか。ハリウッド映画のLOVEという言葉の連発には本当にまいる。それはまるですべてを解決できる魔法の呪文のようだ。

 それでも、私たちは英語のLOVEをただ「恋」と訳すだけではなにか足りないものを、どこかで感じているのではないだろうか。それはいったいなんなのか。恋のようにそんな一時のはかないものではなく、もっと深くて、いつまでも変わらない感情、そういうものが確かにあるのではないかと、どこかで感じている。それはいったいなんなのか。

 私がひそかに刮目している漫画家に業田良家がいる。あまり注目されなかったが、一時期ヤングマガジンに連載されていたものに『ヨシイエ童 話』(講談社刊)というシリーズがあった。そのシリーズの中に『LOVE男(おとこ)』という中編がある。このマンガはそこら辺のマンガでイヤというほど語られている「恋」というテーマではなく、「愛」というテーマについて描かれた貴重なマンガであると思う。あるいはそのテーマは文学でもめったに追究されたことはなかったのかもしれない。

 なぜか志村けんそっくりの、ステテコで腹巻き姿というLOVE男が、このマンガの終盤で、失恋した主人公の男から「真実の愛っていったい なんなんだ。そんなもの本当にあるのか」と問われて、こう答えるシーンが圧巻である。

 LOVE男は「それなら愛をみせてあげよう」という。驚く主人公に対しLOVE男はこう告げる。「私は愛を信じない。一生誰も愛さない」そう叫んでみなされ、と。

 「オレは愛を信じない。一生誰も愛さない」

 そう叫んだ主人公にLOVE男はたずねる。その言葉を「本当に心からいえたか」と。「自分の 言ったことに反発心を感じかなったかね」と。そしてそのとき感じたささいな違和感こそ「愛」なのだと告げる。主人公は「これが愛!こんなちっぽけな感情が愛なのか」と驚く。LOVE男はただ「そうじゃ。愛とはそれくらいたよりなく、ちっぽけなものなんじゃよ」と平然と答える。

 このマンガを読んだとき、私が長年抱いていた「愛とはなにか」という問いに、はじめてヒントをもらったような気がした。 そう、彼が指摘するように、恋という強烈な感情に較べたら、愛などというのは本当にあるかどうかわからないささやかな感情でしかない。でも、「愛はない」といいきろうとするとき、かすかに私たちの心の中から陽炎(かげろう)のようなものがゆらゆらと浮かび上がってくる。

 そのささいな違和感のようなものが確かにある。でも、それが愛なのだろうか。わからない。そこになにかがあることは感じていても、はっきりとはつかめない。それはつかもうとすると、するりと手の指の間をすり抜けていってしまう。

 多くの物語が「そして王子さまと王女さまは結婚して幸福に暮らしました。めでたし、めでたし」で終わるのはなぜだろう。そこから本当の生活がはじまるのに・・・。ひるがえって、なにか愛とは「生活」という言葉にもっとも近いような気がする。

 私はひそかに「恋愛マッチ説」というものを唱えている。マッチの頭である火薬の部分はまるで花火のように派手に燃え上がる。しかし、その火が軸木に移っていかないで終われば、それはただの火薬の無駄使いに終わってしまう。「恋」という火薬によって燃え上がった火が、軸木という「生活」に移行しないかぎり、恋は、産卵に失敗してボロボロの屍をさらした鮭の死体と同じものでしかないのではないか。でも恋愛依存に陥ったものたちは、そのもっとも刺激的な恋の部分だけを、次から次へと追い求めてさまよう。

 人間とはそういう強度、というかめくるめきを求め続ける存在なのであり、それもありだと思う。でもそれはあくまで「恋」でしかない。恋をいくら重ねていってもそれはけっして「愛」に変換されることはない。「恋愛」というまぎらわしい言葉のせいで、私たちは恋と愛がなにか隣人同士のような感覚に慣れてしまっているが、恋と愛の間には本来なんの連続などないのではないか。では「愛」とはいったいなんなのだろう。

 臨死体験(ニアデス体験、事故や病気で一度死にかかった人が奇跡的に生き返ったときに体験することがあるといわれている)の報告などを読むと、死後、圧倒的な愛の感覚を体現する光の存在との出会いがあるとされている。その光の存在から流れ出てくるあふれる愛の波動に圧倒されて、自分の中からも圧倒的な愛の感覚があふれ出すなどという体験が、しばしばニアデスからの帰還者たちによって語られている。

 そのニアデスの中での、愛の感覚というか、すべてのものは一つにつながっていて、宇宙の中心にはただ無限の愛の感覚だけがある、という体験があまりにも強烈なため、しばしばこの世に生還してから、強いうつ状態になってしまうことがあるといわれている。

 その圧倒的な愛の感覚を知ってしまったら、もはやこの世界で生きていくことは耐えられなくなるのだという。なかには自殺さえはかる人がいるようだ。そういう愛の感覚というのは、機能停止の脳に起きた幻覚なのかもしれないし、あるいは誰の中にも潜在している心のエネルギーみたいなものとの生な接触の体験なのかもしれない。

 そういうものがたとえあるとしても、日常を生きる私たちにとって、手に入れることができるのは、その圧倒的な愛の感覚のほんのひとかけらでしかない。そういう超越的な存在についての、遠いかすかな記憶のような、プールに滴ったキリストのたった一滴の血液の分子ように薄められたなにかでしかない。

 ここで問題にしたいのは、そういう私たちが日常に生きている中で感じることがある、愛という感覚についての蓋をされたかすかな記憶の断片のようなもの、それを辿ろうとするときのなにかもどかしい感覚についてである。ちょっと混乱してきた。少し整理してみたい。

 はっきりしているのは、人と人の間にはプラスでもマイナスでも、なにかの共振みたいなものが起こるということだ。ほら、どこの学校の音楽室にもあった、あの音叉(おんさ)と音叉の共振みたいなものだ。音叉の一方で起きた振動が、空間的に離れているもう一方の音叉にも伝わっていく。

 さらにいえば、そこには共振のスペクトルがあるということだ。一方の端にはきっと憎しみや嫌悪がある。もう一方の端は親しみや憧れがあるのかもしれない。その間には色々な感情の段階がある。しかし、その共振全体を、そのスペクトルのはじからかじまでを包み込むものがあるのではないか。

 それは感情というより、もっと圧倒的な力の感覚である。出会ったときから反発したり、ひかれざるをえないというような、そういう結びつきをいやでも成立させるもの。そこからはどんな人間も逃げられない、人間の本質に深く根ざした結び会おうとする力。そういうものが人間にはある。憎しみは、人と人を結びつける強度においては愛と変わりない。愛と憎しみが等価である、そういう地点がまずあって、同時代を生きている私たちを、いまここで結びつけている。

 それをなんと名づけることができるのか。それと「愛」とはどういう関係にあるのか。一方で宇宙全体と一体化するような超越的な「愛」につ いてのかすかな記憶のようなものがあって、その薄められた感情をなんとなく愛であると感じているような部分がある。しかし、生物学的な本能的なものとして、同じ種にたいしていやでも同調するような、共振するようなものとして私たちはある。それをもっと純化していけば、哲学的な用語でいう「指向性」というもの、なにかに向かっていこうとする私たちの意識というか、心の性質みたいなものにたどりつく。それは愛というより、むしろ恋に近いものなのかもしれない。私たちはこの世界と恋をするように作られている。

 私たちがこの世で手に入れられるのは、愛などというものではなくて、しょせん恋でしかないのかもしれない。でも、その恋がいつか愛に変わる奇跡が起きることはないのだろうか。

 恋はいつか終わる。恋によって結びつけられたものどうしが、それから生活を共にしていくとして、はたしてそこから愛がはじまることがある のだろうか。昔話でくりかえし語られているように、王女様と王子様はそれからずっと幸せに暮らすことができるのだろうか。それはたんなる恋の爆発的なエネルギーによって自動的にできるものではない。むしろ恋という爆発的なエネルギーから、もっと穏やかなエネルギーへと変換されていく過程が必要なのだろう。

 夫婦というのは本当に不思議だ。他人どうしが恋という魔法によって目がくらんで、やがて一緒に暮らすようになる。しかし、生活の積み重なりのなかで、やがてお互いが愛ではなく、ただ憎悪によって結ばれているなどという状況が生まれたりする。しかし、その長年憎しみあっていた夫婦が、晩年本当に謡曲「高砂」の翁(おきな)と媼(おうな)のように和解しあうことがある。愛とは和解する力なのだろうか。そこに起こることは一体なんなのだろう。妥協、あきらめ、断念、そういう言葉に近いある覚悟のようなものなのか。

 私たちが手にすることのできる愛のかすかな手触りとは、もっとなんでもない、植木に毎日水をやり続けるような、感情というより、毎日の生活を支えるささやかな意志のようなものの中にみつかるのかもしれない。

 愛の感覚とは、それがある種の感情であるとしても、きっとそれはたんに「好き」とかいうものではなく、もっと「驚き」というものに近いものではないかと思う。この世で手に入れられる愛とは、そういう地味な生活のひだの中で立ち上がってくる、人と人が出会うことの驚異に対するある敬虔な感覚の自覚といってもよいのかもしれない。慣れ親しんでいたあたりまえの夕焼けの情景に、ある日ふとそれをはじめて見るかのように驚嘆する瞬間にそれはたとえられる。

 もし、恋が愛に変わることがあったとして、それは「恋」という強烈な感覚の過ぎ去った後にそれでも残るかもしれない、共にいることのささやかな喜びであり、地味な「生活」の重なりのなかで生まれてくるものではないか。

 矛盾するようだが、いつか恋が愛に変わる日がくる。それはきっと人生の最後の日にでも起きるかもしれない奇跡としてあるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?