見出し画像

トヨさんの椅子 (割り込み編)

はじめに

前回のエッセイ「トヨさんの椅子(2)」の終わりに次回はトヨさんの椅子を活かした実践的生活術をお伝えすることを予告しましたが、その前に!予定を変更して、この椅子の作者である工業デザイナー豊口克平氏について少しだけ触れおきたいと思います。巻末にてプロフィールをちょこちょこっとでは、やっぱりなんか忍びないので急遽割込み変更致しました。ごめんなさい🙇
それでは!
「トヨさんの椅子」の作者である豊口克平という人は実はこんな人でした。

クレジット入り豊口

型而工房の同人から工藝指導所へ

豊口克平(とよぐちかつへい ※かっぺいは愛称)は1905年(明治38年)秋田県に生まれました。県立秋田工業学校を卒業後1925年(大正14年)に東京高等工芸学校工芸図案科(現千葉大学工業意匠学科)に入学。1928年同校を卒業。それと同時にバウハウス理念に基づいて結成された研究団体「型而工房」(ケイジコウボウ)に参加します。型而工房とは”新生活様式の確立を目指す新産業工芸・デザイン運動”を掲げ活動していた 若者たち8名による組織で、ここでは量産向けの家具(標準家具)を設計し、その講習会や展示会・執筆・出版など頒布活動を行いました。当時貧しかった日本の生活改善いう、高い意識を持ったこのデザイン活動は大戦までの10年間にわたって続けられました。豊口氏はこの型而工房時代のことを自身にとっての「思想形成時代」といっております。

そして1933年には商工省管轄の仙台工藝指導所の所長であった國井喜太郎氏に誘われ工藝指導所に入所します。(東京から仙台へ)

2013_0614指導所石碑00051

■画像 仙台工藝指導所跡に建つ石碑(現:仙台市宮城野区五輪)
剣持勇氏が宮城県南の白石から運び入れデザインしたと言われる石碑。近代工芸の発祥の地ということを今も力強く伝えています。

[商工省仙台工藝指導所]
当初の立案としては、日本各地にある工芸的手工業に最新の工業科学技術を応用し工芸の近代化そして量産化を進めることで、①良質なものを大衆化すること、②輸出を充実させることを目的としましたそしてその後、当時政府の課題でもありました、③東北に眠る未使用の資源開発④東北の産業振興という目的をも付け加えられた形でようやく国会承認。予算規模は小さいながら仙台市の熱心な誘致活動の努力が実り、1928年(昭和3年)11月、仙台市二十人町(現:仙台市宮城野区五輪)に開設されました。

それまでの日本は第一次大戦後の好況の後に訪れた大不景気も重なり、一般の人々はとても貧しい暮らしをしていました。農村部は特に厳しく、明治に始まったブラジルやハワイへの開拓移住が未だ続いていた時代です。
石油や機械など外国から輸入するための外貨獲得が、国家としての重要な課題であり、そのためにも生糸や綿織物そして第一次産品など、当時主流だった品目以外にも、世界に通用する輸出品目が必要であり、その開発と強化が求められていました。

大河ドラマ「青天を衝け」と重なりますけど、明治政府が行った富国強兵の中の殖産興業。紆余曲折はありましたが、生糸は長い間 私たちの日本を支えてくれた輸出品目の重要な柱でした。

バウハウスと型而工房と豊口克平

さて当時ドイツにて、ヴァルター・グロピウスによって総合的造形教育を目指した国立大学バウハウスがヴァイマルに開校したのが、1919年(豊口氏13か14歳の時)。その後、世界の時が次の大戦へと流れだす中 、バウハウスはナチスによって市立に格下げされ、テッソウに移転したのが1925年(同年豊口氏は東京高等工芸学校に入学)。そして今度はさらに私立へと体制が変わり、大学は1932年ベルリンに移転。そして更なるナチスの圧力が強まる中、バウハウス最後の校長であった建築家ミース・ファン・デル・ローエが、自主廃校に追い込まれたのは1933年で、ちょうどその年に、豊口氏は工藝指導所に入所しています。つまり、東京高等工芸学校時代から工藝指導所に入所するに至るまで、バウハウスの活動やその理念をリアルタイムで注視できた世代ということになります。

先程の型而工房は、東京高等工芸学校の講師を務めた建築家藤田周忠氏が、アパートの一室に若者たちを集めこのバウハウスを語るグループとして、1928年にスタートしたのがその始まりです。

バウハウスは世界中のアートシーンやデザインシーン、そしてその教育現場にも大きな影響を及ぼしたました。現在でも美術大学のカリキュラムにはバウハウスの教育システムの影響が多く残ると言われています。

■参考 近代建築における4大巨匠そのうち二人はバウハウス
〇ヴァルター•グロピウス
(バウハウス初代校長)
〇ミース•ファン•デル•ローエ
(バウハウス三代目最後の校長)
• フランク•ロイド•ライト
• ル•コルビュジエ

ブルーノ・タウトと豊口克平

豊口氏が仙台工藝指導所入所した年の12月、やはりナチスから逃れ日本に一時滞在していた ドイツの建築家ブルーノ・タウトが 工藝指導所の嘱託顧問となります。それによって今度はドイツ工作連盟のメンバーだったタウトから直接工作連盟の理念を学ぶことになります。

タウトは、海外製品の模倣ではなく 日本にある素晴らしい素材や技術 、形の優れた点を見出し活用すること。さらにグローバルな視点からそれをリデザインすること。そして、そこから生まれた質の高い独自の製品を輸出し 販路を拡大するという高い目標を掲げました。これによって工藝指導所とって新たな進むべき方向性が見えてきました。
当時ベテランの所員たちはタウトの指導に意外と冷めていたと聞きますが、入所したての豊口氏や同じ若手所員だった剣持勇氏らは、研究、試作、批評をくりかえす仕事の方法論や、優れた工芸品の収集方法などを学びながら、正しいデザインのあり方についての本質に触れることになりました。タウトの在任は約四カ月という極めて短い期間でしたが、豊口氏たちは「見る工芸から使う工芸へ」というタウトが導こうとしたその教えを、目を輝かせて吸収したそうです。この指導所時代を自身にとっての「研究時代」と豊口氏は言っております。

工藝指導所での「工芸」そのものについての視点が、幕末・明治という時代に、外貨獲得のための重要輸出品目として一般の工芸とは階層を分け、高い地位を確立してきた「主に観賞を目的とした美術工芸」との分離が、タウトの指導によって確実なものになっていきました。

2013_0614指導所石碑00021

■画像 こちらも仙台工藝指導所跡:説明文の中にはタウトの文字も。

豊口氏は工藝指導所にて家具を中心とした規範原型の研究を行い、部材の規格化や構造の簡易化を研究することで、経済の優位性の考慮や製造技術の向上を目指しました。この標準化は型而工房時代から持ち続けた一貫した理念でもありましたが、指導所ではその理念を科学的に前進させることになりました。先にご紹介した通り、豊口氏は指導所に在籍しながらも、型而工房の活動が停止に至るまで参加し続けていたそうです。


個人的には、国民そして国を豊かにするという大義のために、一般市民の生活改善のための大衆化とうディテールからのアプローチの仕方と、輸出拡大から外貨の獲得つまり国益や国力の増強からのアプローチの仕方ほか、戦前、戦中、戦後という時の流れの中で、目の前に現れる様々な対立軸に対して、役人の立場でもありました豊口氏は、いったいどのような視線で見つめ、自分の中でどう折り合いをつけ行動しようとていたのかが、とても興味深く思います。

やがて戦時色が濃くなるにつれ、国内は深刻な物不足に陥ります。その中で工藝指導所では代用品の試作研究などを行なっています。また航空機木製化の研究開発指導にも関わりました。

終戦を迎えると、工藝指導所はGHQ指令によってディペンデントハウス(進駐軍家族用住宅)の為の 家具の設計をすることになりますが、そこで豊口氏は責任者としてあの秋岡芳夫氏らとともにその任務に就きました。
そして後に工藝指導所は通産省産業工芸試験所(産工試)に改称され、豊口氏は意匠部長を務め、更なる日本の工業デザイン界の近代化に貢献しました。

1959年通産省を退職した年、武蔵野美大工芸工業デザイン学科主任教授に迎えられ教鞭をとり始めます。そして翌年1960年に豊口デザイン研究所を設立しました。

■参考 豊口克平氏と秋岡芳夫氏
長年勤めあげた公務員の立場から民間で独立するに当たっては、工業デザイン界の重鎮の豊口氏と言えど不安を抱えていたのでしょうか、秋岡芳夫氏の力を借りることになります。秋岡氏は一回り以上年下で東京高等工芸学校の後輩でもあり、工藝指導所時代の部下でもありました。しかし日本で初めての工業デザイン事務所「KAK」を立ち上げ、強いリーダーシップと持ち前の人を引き付ける人柄によって、大いに活躍していた秋岡芳夫氏。豊口氏はそんな秋岡氏に相談をし、KAKの事務所もあった東京目黒にある秋岡氏の自邸別室を間借り。晴れて豊口デザイン研究所がスタートします。
現在「トヨさんの椅子」が、秋岡芳夫氏による生活デザイン運動から生まれた有限会社モノ・モノがその権利を有し大切に生産販売卸を行っているのは、秋岡氏が「トヨさんの椅子」に惚れ込んでいたという他に、豊口氏と秋岡氏はこのような強い信頼関係で結ばれていたという背景もあるわけです。

(有)モノ・モノのカタログのでは、豊口克平氏のプロフィール紹介の中で秋岡芳夫氏が語った豊口氏の人物像が紹介されていますが、あの剣持勇氏との比較が面白いです。

※太文字部分がカタログに引用されています
デザインの現在を準備
秋岡芳夫
(工業デザイナー)
1920年生まれで東京高等工芸にいた私は、型而工房の活動をデザイン運動として注目していた。先輩ということもあって、豊口克平のユニット家具(標準家具)を近代的なデザイン志向の産物と受け止めた。戦後、産業工芸試験場に日給6円の”雇い”(臨時職員)として入り、豊口さんの指導の元で進駐軍家族用住宅家具の設計をやった。
豊口さんは戦前から人間工学的研究のはしりをやった人で、この頃から私が愛用する”トヨさんの椅子”の設計を始めていた。当時の産工試は”月謝のいらないデザイン大学院”だった。
この産工試の両雄、豊口さんと剣持さんは対照的な人柄だった。
剣持勇は木工工芸科の出身でありながらディレクター的な才に秀でたタレント。彼の和風はスタイルとしての和風だ。一方、年長の豊口さんは、図案科出身なのにやや地味な研究者的風貌をして、文学青年の趣もあった。彼の和風スタイルはライススタイルとしての和風である。”徹夜椅子” ”あぐら椅子”とも呼ばれる”トヨさんの椅子”は、フロアライフ志向を先取りしていた。
無欲で清廉、立場をわきまえて、作品を残すよりも日本の今日のデザインを準備する役割に徹した人である。

■引用 書籍:型而工房から : 豊口克平とデザインの半世紀
    グルッペ5, 豊口克平 編,美術出版社,1987 より

画像5

このカタログ、ちょっとした読み物になっていて、秋岡氏が行った生活デザイン運動が垣間見れる、とてもよくできたカタログです!
カタログ左上のロゴマークが見えるでしょうか。「考える人」「つくる人」「売る人」「使う人」を表した四つの矢印が中心にある一つの赤い点を指しています。これは秋岡芳夫氏の生活デザイン運動からきている表現ですが、弊社のエッセンスと重なり、その意味を知った時のあの瞬間!思い出すと今も胸躍ります! 

※もしこのカタログにご興味のある方がいらっしゃいましたらお気軽にお問い合わせ下さい。秋岡芳夫氏の生活デザイン運動は今も生きています!共有できれば嬉しく思います。

豊口氏のデザイン手法の一つとして「協同作業」というキーワードがありますが、豊口氏と研究を支える専門家たちで行われた椅子の支持面の機能研究は、のちに千葉大学の小原二郎研究室に引き継がれ、その研究結果がJIS化されることで家具デザインの基礎データとなりました。「トヨさんの椅子」はまさにこのデザイン手法の産物であり、背もたれや、座面などに見られる三次曲線や詰め物、そしてサイズに至るまで、この研究から得た実験データが活かされています。

画像3

工業製品も新しい工芸だ:metaphysics?

豊口氏は「工業製品も新しい工芸だ」と言いました。そこにはハンドクラフトと機械生産というと、時に対立軸の様に語られらことがありますが、豊口氏にとっては生産の手法が異なるというだけで、「生活改善の為」という型而工房時代から持ち続ける姿勢は一貫してました。自身にとっての工業化はその実現を確実にするための一つの手段でした。
それは民藝運動の柳宗悦を父に持ちながらも独自の道を進み、やがて日本民藝館館長として工業製品を「民藝」に持ち込むことになる柳宗理の姿が、何となく僕の中では重なってしまいます。

「デザインの至上目的は人類の用途の為」と言い、それはまるで仏教哲学につながるかのような、終始ストイックで魂のこもったモノづくりを、工業デザインを通して続けた柳氏。自身にとってのデザイン哲学を語る時、大好きなアフリカの民具を愛でる時のあの天真爛漫でまるで少年のような柳宗理氏のイメージとは全く別人です。

豊口氏の「トヨさんの椅子」にしても柳氏の一連の製品にしても、そのフォルムから発せられる優しさオーラ。あれだけ綿密なデザイン計画から形づくられていても、決して神経質さは感じない、とてもオーガニックで人に安心感を与えるフォルム。きっとこの二人が見つめたその視線の先にあるものが似ていたのではないか?改めてお二人の製品を眺めているとそんな気がしてなりません。
二人のデザイン活動は、パブリックなデザインからホームユースデザインまで、実に幅広い分野に渡りました。それを実現させるための高度な手法や理論の前に、そこには厳格でそして温かな社会を見つめる眼差しがあり、高い社会意識がともなった「創造力」が存在していました。

まさに「形而下」であり「形而上」。尊敬しています。
手法がデジタルの今日でもやっぱり「形而上」は大切にしたいものです。

豊口氏は生涯をかけて人々に親しまれるロングライフデザインを世に出し続けました。その中には昭和生まれチームの方であればご存知だと思いますが、当時街角で見かけたあの黄色や赤色の公衆電話もその一つです。まさに日本のモダンデザインのパイオニアの一人として名を残しました。
1991年7月、日本の工業デザイン界の重鎮、る豊口克平は享年85歳にてこの世を去りました。

1954年~1973年 日本インダストリアルデザイナー協会理事(理事長歴任)
1955年     桑沢デザイン研究所教授就任
1958年~    日本インテリアデザイナー協会理事(理事長歴任)
1958年     日本航空DC-8 アートディレクター
1960年     第一回モスクワ日本産業見本市会場デザイン
1961年~1966年 日本巡行見本市桜丸展示設計
1962年     シアトル万国博覧会日本館
1967年     モントリオール万国博覧会日本館
1969年     大阪万国博覧会協会ディスプレイデザイン顧問担当
1974年     日本インダストリアルデザイナー協会名誉理事
        日本インテリアデザイナー協会名誉理事
1977年     武蔵野美術大学名誉教授
1990年     通産省デザイン功労賞(第一回)受賞者に選ばれる
        (財)工芸財団理事長を歴任
勲三等瑞宝章、貿易振興総理大臣功労賞、国井喜太郎産業功労賞など受賞多数。
参考書籍 美しい椅子2 にっぽんオリジナルのデザイン力
著者 島崎信+東京・生活デザインミュージアム
※この本のシリーズ二作目が「にっぽんのオリジナルデザイン力」ですからそういうところが先生らしいです!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?