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環境に身を任せることをみずから選びとる

先日、自分のPodcastに出演してくれたファッションデザイナーのBEBIとはじめて会った際、気が抜けているがしゃれた格好をしていたので、どこで洋服を買うのかと訊いたことがある。すると彼女は、こともなげに「ぜんぶ友達とか家族からもらったものですよ」と教えてくれた。そこで自分は小さな衝撃をうけると同時に、「やっぱりそうか」と妙に納得してしまった。

私は2014年に『STUDY』を創刊してから様々なファッション好きと交流してきたが、近年「洋服にお金をかけない、だけど見た目には十分おしゃれな人たち」が増えていることを強く実感する。これは、現在の経済状況や世相がダイレクトに反映された現象である。メルカリやNEW YORK JOE EXCHANGE®のような新しいファッションのプラットフォームが実質は物々交換の世界をオファーしていることも、その状況に拍車をかけた。

ただし、「(結果的に)シャアリング」「お金をかけない」という点から、上記のムーブメント(といっていいと思う)を60年代後半のヒッピーカルチャーと比較する声もチラホラ聞くが、そこに反資本主義のような政治的スタンスは含まれていない。あくまで、あらゆる面で欧米のスタンダードについていけなくなり、可処分所得が下がり続け、ジャパニーズドリームがフェイクであることを確信してしまった時点において、それでも日々の楽しみを手放さないために精一杯の工夫をしている、という風に自分の目には映っている。

いや、「精一杯」というほど切実な響きのものでもない。事実や数字を書き連ねるとネガティブに聞こえるだろうが、それはただの「環境」であって、人々の行動や思考は未来への展望も含めたその「環境」の枠内でしかありえない、ということ。

支持政党も、ない。だって、個人やパーティ(政党)ではなく、構造に大きな瑕疵があることは明白であって、日々の悩みは最終的にすべてそこへたどり着いてしまうから。できるだけその構造とは無関係のところで生きていきたい。えーっと、もちろん日々“お世話になっている”ユニクロやメルカリやセブンイレブンは巨大なシステムではあるのだが、むしろそれらは自分たちのセーフティネットとして機能しているんだよな。つまり、それ以外の部分で「一般社会」との接触を最小限におさえて、自身のモチベーションくらいは自身で管理できるようにしておきたい、ということ?

ここで、二つの映画作品を引き合いに出してみる。

『猿楽町で会いましょう』の主人公である田中ユカは、読者モデルから女優に成り上がることを夢見ているが、彼女は最初からその構造の内部に存在しておらず、圧倒的なオーラと野心をもつ大島久子の成長を助ける「養分」でしかない。そのことに本人は気づいているのか気づいていないのか。監督の意図はわからないが、作品のなかで明確にジャッジできる場面はなかったように思う。

また、本作と関連づけて語られることが多い『あのこは貴族』で、時岡美紀と友人の平田里央が「田舎から出てきて搾取されまくって、、、私たちって東京の養分だよね」と自虐的に笑いあうシーンがあったのを覚えているだろうか。それでもこの二人は新しい事業を立ち上げ、「ジャパニーズドリーム」の一端を担っていくのだ。つまり、「東京の養分」として全うすることを選んだ。これはなかなかの皮肉である。

「とはいえ、やるしかないんだよ」という気持ちでここまでなんとかやってきたけれど、やはり先がみえなければ息も続かない。すべてに意味を感じたいわけでもない。ただ、グッチを着たハリー・スタイルズをみて憧れたところで、そのグッチの洋服とやらに見合った生活は日本のごく一部にしか存在しないので、大衆にとってそれは「ディズニーランド」としての機能しか持たない。いや、「ディズニーランド」はもっと確実な楽しみを提供してくれるか。ファンタジー。幻想。うむ、悪くない。だけど、それ以上でもそれ以下でもない。

そういえば、ハイファッションの分野はコロナ禍をへても堅調で、さらに次なるビジネスの舞台としてインドやアフリカが待ち受けているという。国際会議の場で気候変動問題が持ち上がった際に、よく開発途上国から「君たちはすでに贅沢を享受しているからそんなことがいえるんだ。こっちもせめてそれを経験させてくれ」という真っ当な主張が出てくるが、なるほど、個人レベルでも同じことがいえる。つまり、高い洋服を一生かけても着られないほど所有することが幸せに直結しないことが証明されていても、身を以てそれを知る権利はある、というわけだ。

では、物価も給料も下がり続ける日本において、「贅沢」とは何のことを指すのだろうか。いつでもおいしい牛丼やカレーが食べられて、安い古着を手に入れることができて、You-Tubeで無限にコンテンツを鑑賞できる状態は、はたして贅沢のうちに含まれるのだろうか。自分にとって「洋服にお金をかけない、だけど見た目には十分おしゃれな人たち」は最高のものに映るが、それが環境の産物、つまり「みずから選び取ったものではない」ことを自覚しているという点では、本来の「贅沢」の意味合いとはずいぶん異なる。

ただ、ここでもひとつの疑問が生まれる。自分たちはもはや従来の意味での「みずから選び取る」ことに重点を置いていないのではないか、と。たとえば、韓国はドメスティックな経済が破綻してしまったから、国外マーケットに「進出せざるをえな」かった。アメリカは個人の権利を主張しないとサバイブできないから、大半が「政治的であることを避けられな」かった。みずから選び取らないことには、どうにも生きていけない環境がそこにはある。

最初に紹介したBEBIは、古着にリメイクを施しそれをインスタグラムやウェブ経由で売っている。そのボディの調達方法はというと、BEBIの友人が不要な古着を持ってくるケースが多く、そこで彼女に「選ぶ」権利はほとんどない。せいぜい10着から3〜4着、「本当にどうしようもないもの」を振り落とすことしかできない。彼女本人も、基本は「環境に身を任せている」意識だという。

青写真に向かって邁進するのではなく、「環境に身を任せることをみずから選びとる」という言い方は、はたして成立するものだろうか。他人のパイを奪い合うのではなく、かといって進んでシェアするわけでもなく、自然の循環のなかで楽しく生きていくことに集中すること。それが新しい日本のロールモデルだといわれたら、またしても絶望するのだろうか、それともすっきりするのだろうか。

ここでいう青写真とは「未来」のことだ。だが、少なくとも自分のいる場所から「未来」はまったくみえない。暗闇にいるから光を求めている? そうでもない。意志とは何か。『Spring Breakers』のごとく自己破滅的な享楽に身を捧げたいとも思わないが、もしアメリカにならって国内でも大麻が解禁されるのであれば一度は試してみたい。その程度。

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ダメだ、停滞はすぐそこに待ち構えている、逃げなければ、全力で。何はともあれ、エンジンは一生燃やし続けなければいけない。つまりさ、自己顕示欲だってうまく使えば良い人生を送るために役立つ、かもしれない。本質なんてどこにも存在しない。これもまた幻想。

その事実にぶち当たってしまった後、今度はどこへむかって歩き出すのだろうか。


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