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竹田城最後の城主-赤松広英が見た景色

3月にブラック企業を辞めてから8ヶ月ほど。
11月末で職業訓練が終わり、ありがたいことに前社のブラック企業よりも数倍優良な企業から縁を頂いた。

入社までの束の間の帰省がてら、地元の竹田城へ登城してきた。
ちょうど我がマイナーチャンネルでは竹田城最後の城主となった赤松広英の動画を連載している最中。

今回はそんな竹田城と赤松公について書いてみたい。


城は有名なのに城主は無名

竹田城と言えば「天空の城」や「日本のマチュピチュ」という字名までつけられる程に有名になった。
その要因はgoogleのCMに取り上げられたことが大きいと思うが、メディアの力というのは改めて大きいと驚く。

そんな城の知名度に反して、最後の城主だった赤松広英という人物はあまり知られていない。

無名であるが故に資料などもあまりなく、彼を題材にした小説も数えるほどしかない。
ただ、そういった少ない情報を拾い上げる限り、日本儒学の祖といわれる「藤原惺窩」と馴染みで朱子学にも通じ、竹田時代には善政を敷いて領民には大変慕われた名君だったとか。

詳細は良かったら動画で見て頂ければ幸いである(まだ全然途中だけど)

関ケ原では西軍につき、後に東軍についた亀井茲矩の誘いを受けて鳥取城攻めに助力したが、その時に鳥取城下を焼き払った罪によって家康に切腹を命じられた。

歴史上の真実というものはわからないけど、亀井茲矩の讒言だったとか、元々家康に生意気だと思われていたとか、この広英の切腹に関しては諸説ある。
善政を敷いて領民に慕われていたというのは事実で、そんな広英が鳥取城下を焼いたというのは、個人的には違うのじゃないかなと思いたい。

竹田城と言えば雲海

今回は初めて雲海チャンスを捉えるため、朝5時前に起きて現地に向かった。

竹田城の撮影スポット

竹田城の撮影スポットとして、有名なのが南東の「立雲峡」から。
本丸側のアングルになり、雲海の時間帯には右側から昇る朝日が石垣を照らすアングルになる。
竹田城の知名度が上がるにつれて立雲峡も整備されているようで、駐車場の台数も結構数確保されている。

しかし、今回攻めたのは別の場所。
藤和峠という隠れスポットがあるとの情報をゲットしたのだ。
城を挟んでちょうど立雲峡の真逆にあり、城からの位置で言えば北西の高所。
アングルでいうと、城の左側から朝日が昇ってくる逆光アングルになる。

朝5時半位に現地に到着したが、さすがに先客はいなかった。
朝日が昇るまで、しばし月明かりの闇と虫の音、鳥の声に耳を傾けた。
残念ながら雲海は出ていなかったが、山の端から徐々に色づく空を見ているだけで清々しい気持ちになる。

朝日と竹田城
PEN-F
M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm f2.8 PRO

お分かりいただけるだろうか?
この中に竹田城が確かに存在するんだ。

そう、完全にレンズ距離が足りていない(^^)
マイクロフォーサーズなので80mm換算最大でここまでしか寄れず、城がほとんど見えていない笑
40-150mmを持って帰省しなかったことを本当に悔やんだ。

城はここにある

朝日を待つ間に二人組のカメラを携えたおじさまが来られた。
話を聞くと大阪の堺からわざわざ来られたそう。
竹田城を撮りに来るのは4回目らしいが、まだ雲海には出会えていないとのことだった。

シーズンと言えど、雲海にはなかなか巡り合えないらしい。


広英の見た風景

遠景だけというのもアレなので、その後は竹田城へと登る。
朝一から登城している人もかなり多く、登城途中に多くの下城する人たちとすれ違った。
自分と同じように写真目的でカメラを携えた人も居たが、驚いたことにカメラを持っていない若者たちが一番多かった(今時の若者はわざわざカメラではなくスマホで写真を撮るのだろうけど)

前回登城した時は、恥ずかしながら自分も赤松広英という人物を知らなかった。
その後興味が湧いて色々調べ、小説を読んだりしながら今の動画をアップしている。
城主であった人物を知ってから登ると、また違った思い入れが生まれるのが不思議である。

天守台から城下を眺める

天守台から城下を眺める風景は、広英が本丸から眺めた風景と全く同じではないにしろ、そこまで変わってもいないと思う。

小説内では城下は細長く、奥に見える円山川は大雨の度に氾濫して領民を苦しめた、なんて記述がある。

まさにそんな記述とぴったり合致する風景。

龍野城を追われて紆余曲折あった広英が、第二の故郷として流れ着いたのがこの竹田城。
広英にとって新天地であったのが、この竹田城なのだ。

広英が見たであろう風景を眺めながら、自分にとっての新天地である次の職場とこれからに思いを馳せたひととき。

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