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認めて褒めて頭を撫でて

約束通り世界が望んだ
シナリオ通りに生きていたんだ
悲劇なんて思いたくなかった
それなら初めからちゃんと言えばよかった
後戻りはもう許されなかった


今ではあまり無いことだけれど、学校でも家でも「らしさ」を無意識のうちに押し付けられることがありました。


「○○さんは頭がいいから」

「○○さんは漫画とか読まないでしょ」

「あんたは手がかからなくていいね」

「スカートよりズボンが似合うよ」

「本当に料理は駄目だね」



こんな風に言われる度に



......頭がよくなきゃ私じゃない。

......小説ばっかりよんでいるのが私らしい。

......手がかからない良い子でいなくちゃ。

......スカートは似合わないからズボンを履かなくちゃ。

......私は料理ができないからしちゃいけないんだ。


って決めつけていました。
馬鹿みたいだけど本当に。
他人の中にいる「私」になろうとしていたんです。
いや、ならなきゃと思ってしまっていたのかも。


誰かにとっての期待はずれになりたくなくて
精一杯頑張って。

出来るのに出来ないふりをしたり
好きなことを我慢したり

自分が心の中で思っているのとは違うことを言ったりしていくんです。


例えば、
「漫画なんて読まないでしょ?笑」と言われたら、
その人の中の「私」は

【漫画には興味がなく、小説ばかり読んでいる人】

だからそれを汲み取って
(というと可笑しいかもしれないけれど)

私は「漫画は読まないかな〜興味無いんだよね」
って。

本当は漫画にも興味があるし、周りの人と漫画の話もしてみたいと思っていてもこう返答しちゃうんです。



なんで?素直に言えばいいじゃんって考える人もいるんだろうなとは思うけど、私はその素直な答えが言えませんでした。



きっと「嫌われたくない」っていう心理でした。
今思えば多分無理をしていました。

でも嫌われたくないっていうのは自分の我儘で、無理することを止めて嫌われることが何よりも怖かった。

だからそれを止めるなんてことは考えたことも無かったです。むしろその時は自分が無理をしているなんて思っていませんでした。

自分で気がつけなかったんでしょうね。

多分今までで1番言われたのは
「真面目だね」っていう言葉。
会ってすぐの人にも言われたことがあってすごく困りました。何故そう見えてしまうんたろうって悩んだりその言葉に縛られたりすることも多かったです。




「真面目でいなくちゃ」




って。勉強して
本を読んで
授業中は手を挙げて発言して
馬鹿なことしてる男子に注意して
掃除ももくもくとして
委員長もやって
テストでは必ず90点はとって


周りからの「真面目」なイメージに応えるために。
休みたい、サボりたいとかは思わないようにして。


なんか今こうやって書いてみると強迫観念みたい。

「やりたくない」って言葉が浮かんできたら、
そう考えてしまう自分を責めていました。


そんなことをしていたから、
自分が本当に思っていることを言うことも怖くなって、本当の自分を出したら嫌われちゃうんじゃないかって思うようになって。


「普通」になりたくて。

なんでみんなそんな風に過ごせるの?って
ちょっと不信感を抱いてしまいました。



みんなみんな大嫌い。
自分がそのままで居られる場所が欲しい。


"表に出せない自分を認めて欲しい"なんていうすごく難しいことを考えるようになりました。



とってもとっても面倒な人間が完成してますね。うん。



そして大嫌いな周りの人に好かれようとしている自分がすごく滑稽に思えました。

でも自分では自分を認められないから
周りの誰かに認めてもらうほかない。
しかしその周りの人が認めてくれるのは
「真面目な私」であって
ただ生きている私ではない。

こんなこと考えて中学生のときにベッドで1人で泣いていた記憶があります。

恥ずかしい。




でも

そのときには完成させられたイメージがあって、
もう「真面目」に生活するほかなかった。

1度、ちょっと掃除をさぼったり
あえて図書室の本を返却期限を過ぎてから返したり
(今思うとものすごく小さいことだけど)
ちょっと真面目からはずれたことをしてみました。


結局、駄目でした。

それをする自分に耐えられなかったし、
それをすることで周りから「どうしたの?」って言われたのが怖かった。
後戻りはもう許されなかった。


そのときに、もうやめたいと思いました。

こんなことなら初めから誰かの期待に応えようとか、誰かの中の私になるために嘘をつかなければよかったって。

「何かを頑張ること」を続けていかなくちゃいけないのかなと思って。
このまま生きていくのが厭だななんて。
そんなことばかり考えていました。
変なやつだなって自分でも思います。





本音と建前
我慢こそ美徳


日本の文化ですよね。
良き文化なのか悪しき文化なのかをここで言うことは出来ないけれど。

本音を隠して建前でその場を乗り切る必要がある場面
そして我慢を強いられる場面
我慢したことを素晴らしいと称される場面
これらを経験することは何度もあって。


我慢して普通になりすますことが日常になりました。

普通でいれば何も言われなかったから。

その癖我慢が習慣化した頃に「無理しないで」とか「我慢はよくない」とか言われても、もう直せなくて。

「個性が大事」なんて叫ばれているけれど、
それも結局は「個性」の枠の中の個性しか認められていないんだから、「普通はこうでしょ」って言われることも多くて。型に嵌った人間の方が重宝された。


普通に擬態していた方が生きやすかった。
そして、自分を出せないままだった。
どうすればいいのか分からなかった。


すごく悩んで、苦しくて。


生きていたくないって毎日思って、
明日が来るのが本当に怖かったです。


そんなときに周りを見たら、
深く考えず楽しそうに生きている人がいました。

ずるいとかいいなとかそんなことよりも
「なんで?」って思いました。


なんでこの人は特に考えずに生きていられるんだろう?
私がこんなに考えているのが馬鹿みたいじゃないか
幸せそうだな。なんで何も考えていない人の方が幸せなんだろう?


って

ものすごく自分本位。
自分のことを不幸だと思ったことはあまりないけれど、幸せとも言いがたかった私にはその人がそうやって生きていられるのが不思議でならなかったんです。


そしてこう思いました。

「何も考えずに生きて幸せでいるより、たとえ不幸でも深く考えて生きる人間でいたい。」

自分を守るために、その人を下げるしかなかったんです。
最低。
生きることについて考えている自分の方がましだって言い聞かせました。
考えるのをやめてしまったら終わりだって。
考え続けることが自分が「ちゃんとした」人間であるための証明にもなるって。




そうやって、厭世的に生きる自分に安住していました。



幸せが怖かった。
生きていたくなかった。







クソ重自分語りになってごめんなさい。

アドナイを聞いてたくさんたくさん思いを巡らせたんです。


今は死にたがることも少なくなったけれど

認めて褒めて頭を撫でて大丈夫って言って欲しかった

この歌詞を聞いて思ったんです。
かつての私が欲しかったのはこれかもしれないって。



頑張って生きているのが"普通"で
挑戦や向上を求められて
出来なかったら叱られて
出来ることが当たり前で
褒められることなんて稀で


そんな日々に疲れていたからこそ


「認められたい」

「褒められたい」


なんて口には出来ないけれど
ずっと、ずっと
それを求めていた


今までこうやって生きてきたことを褒めてくれる人が、頑張ってきたことを認めてくれる人がいて欲しいって思っていたんです。きっと




これからもずっと頑張っていなくちゃ
真面目でいなくちゃ
普通でいなくちゃ
生きていなくちゃ


こんな風に思っていることを誰にも言えなくて
1人で考え込んで落ち込んで
他の人にはそれを悟られないようにして

そうやって生きることが嫌で嫌で
生きていたくないって思う自分が欲しかったのは

「大丈夫だよ」


って言葉なのかもしれません。

何が大丈夫、とかどこが大丈夫、とか
そんな説明はいらないから

ただ一言
「大丈夫だよ」って言って。


そして日々の頑張りを当然にしないで
「頑張ってえらいね」って褒められたかった。
「生きていいよ」って認められたかった。

それだけできっと幸せな気分になれた。



何かの登場人物が
「大人になったら頑張っても褒めちゃいけないの?」
と言っていました。


大人になると褒められることが少なくなってしまいます。
でも、出来ることは当たり前じゃないし
頑張っている人が褒められるのは
何もおかしいことじゃないはずです。



先程引用した歌詞で涙が出てくる人は
きっといつもたくさん頑張っている人だろうなとふと思いました。
認められなくても褒められなくても、
頑張ってきた経験がある人じゃないでしょうか。

「あの人より頑張れていない」とか
「もっともっと頑張らなくちゃ」なんて
思う必要はなくて。


1人ひとりの頑張りは、その人だけのものだから。


誰かと比べる必要はないはず。

頑張れていないなんて思わなくていい。
向上心をもつことは素晴らしいけれど、
今の自分の頑張りを否定しないでいられる人が増えればと思います。

全部持論だけれど。



頑張っている人はきっと
「認めて褒めて頭を撫でて大丈夫って言って欲し」いんです。
でも、それに自分で気づくことが難しい。

だからこうやって誰かの言葉を通して、

私は認められたかったのかもしれない
私は褒められたかったのかもしれない
大丈夫って言われたかったのかもしれない

ってことにやっと気がつくのかもなと思いました。

気がついたからと言ってそれを求められる人間であるかどうかはまた別の話になってきますが...

認めてくれる人
褒めてくれる人
大丈夫って言ってくれる人

が近くにいたらなぁと思いますね。
自分が他人にとってのそれになれたら、とも。

自分で自分を認めてあげることってすごく難しいと思います。
自己肯定感って言葉が飛び交っているけれど、それを高く持ち続けられる人は少ないんじゃないかな。

私の場合だけれど、
他人からの評価を気にするなと言われたとしても
そんなことできません。無理です。

結局は他人からの評価を求めてしまっているから
自己評価なんてほぼ皆無で、
「他人から」肯定されることが自信に繋がるんです。


だからこそ
他人のいいなと思ったところやすごいなと思ったところを見つけたら本人にそれを直接伝えられる人間でありたいなと考えています。


その言葉はその人にとって不要かもしれない。
でも逆にその言葉がその人を救うかもしれない。



言葉が産む力はとても大きいです
使いようによっては人を傷つけてしまうけれど
人を救うことだってきっとできる



救うなんて大それたことは出来なくても
優しい言葉をかけてくれる人間が周りにいることで
心強くなれることもあるんじゃないでしょうか。



悩んでいる人に。頑張っている人に。


「大丈夫」って

「幸せになることを拒まないで」って



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