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ヴォルフガング、かく語りき⑰

 せっせと訪問して、と言いますが、それは無理です。歩いて行くにはどこも遠すぎて、何より泥んこ道なのです。何しろパリときたら、言いようのないくらいぬかるみの街です。・・・ここにいる人でなければ、どんなに嫌な所か信じられないでしょう。パリは変わってしまいました。フランス人はとっくに15年前ほどの礼儀をわきまえていません。今では粗野と言ってもいいくらいで、厭になるほど傲慢です。(1778年5月1日 パリ)

 石畳と高さを揃えた街並み、聳え立つ教会の尖塔、響き渡る鐘の音、カフェのテーブルに集うパリ市民のざわめき。パリを訪れた事がある方なら、そんなイメージがあるだろう。乾燥したヨーロッパの空気は青空をより高く感じさせる。おっと、足元には気をつけて!犬の○○が結構落ちてるから。パリは「鼻」の都だ。ともあれあの美しいパリがいつから今みたいになったのかの歴史には詳しくないが、少なくとも250年ほど前のパリは田舎町だったのだ。フランス人が傲慢、てのはずっと変わらずのようだが w。でも多分、15年前の君には分からなかったと思うよ。

 休暇願いを拒否された父を故郷に残し、母と二人で出かけたパリ・マンハイム旅行。父はかつてのパリでの知名度を頼りに、息子の良い就職を目論んでいるが、当の息子はマンハイムでぐずぐず時間を潰し(後に婚姻関係になるヴェーバー家と懇意になり、この時は姉のアロイジアと恋仲一歩手前で盛り上がっていた)、ようやく思い腰をあげて到着したパリでは、期待したほどの歓待は受けなかった。実際この手紙の前半にも書かれているが、一応才能には驚嘆し賛美を惜しまないのだが、それだけの話だとモーツァルトは嘆いている。誰も自分の為には何もしてくれないと失望している。それでもパリで有力者だったルグロの主催する〈コンセール・スピリチュエル〉には出演が叶い、あの名作『パリ』交響曲を披露し大喝采を浴びているが、あからさまな嫌がらせや妨害を受けている。なかなか写譜をしてくれない、第2楽章が長すぎるから書き直せなどネタは尽きない。また一時期は幻の作品となりかけた協奏交響曲 K.297b(ホルンと木管楽器のための)もこの滞在で書かれたが、楽譜を作ってもらえずお蔵入りされている。モーツァルトの音楽を心底愛していたこの時のホルン奏者は、怒りの余りルグロに怒鳴り込んでいる。それにしても、あの美しい『パリ』の第2楽章を書き直させるなんて。モーツァルトは仕方なくずっと短いアンダンテを書くが、本人はこちらもお気に入りだったようだ。

 その昔、パリを歩き回りいろんなモーツァルトエピソードを思いめぐらせていたら、偶然にサン・トゥースタッシェ教会に行きあたった。なかなか立派な教会だ。どんな教会かと扉を開いたら、なんと中では少人数の合唱団が『アヴェ・ヴェルム・コルプス』を練習していた!末席に座りその天国の美を、これ以上ない環境で堪能したのだが、手元の本を開くと、この教会にはモーツァルトの母親が葬られている。昔から墓参りが趣味の私は、墓地に周り探してみたが、残念ながら見出せなかった。

 母親は『パリ』交響曲初演の翌月に他界している。母の手になる手紙はごくわずかしか残されていないが、この旅のあちこちで息子の手紙の余白に、息子に見られないうちに父宛のメッセージを残している。内容はどうも地に脚のつかない息子への懸念にあふれている。お金を浮かすために暖房の薪をけちり、寒さを我慢しての旅が彼女の命を削った事が分かっている。 

 息盛んに才能を自慢する息子、それを諫めてきちんと生活させようとする父、その間に挟まれた母親の事を普段あまり考えなかったが、自分も母親を亡くしている身として、なんとも言葉にできない悲しみがあるな。

 あの教会に導いてくれたのは、ヴォルフガング、やっぱり君かい?

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