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楽語に関する独り言

 和製英語というものがある。明治維新以来の欧米への強い憧れは、アチラの言葉を日本語に取り込むという形で根付いた。日本人がいつまで経っても英語を流暢に話せない原因の一つがカタカナ言葉だと言われるが、もう今更排除はできない。アメリカ社会から銃を無くすのと同じぐらい不可能領域にある。それになかなか便利に使い分けられてもいる。その良い例がバレーとバレエだ。あの球技はどの国もバレーなんて発音しないし、後者は実はフランス語の〈バレ〉なのだが、立派に定着している。バレエという表記はかつての日本バレエ協会長のS先生の功績とお聞きした。現在ではボリショイ・バレエ団と聞いてスポーツ選手団を思い浮かべる人はまずいない。だけど本当は〈バレ〉なんだよ。

 昨今の感染病騒ぎの報道には怪しげな横文字が飛び交っている。都知事のK氏は特にその傾向が激しい。横文字を多用しなければ権威を示せないと思っているのでは、と考えているところでございます。他にも大勢いる。国を牽引する爺様方も「感染が拡大しているエビデンスはどこにもないのであります」なんて言っている間に国中に蔓延させてしまった。ここでは蔓延よりも言いたい文句がある。

 何故ちゃんとした日本語で言わないんだ !!!!

 私の年老いた父には絶対に通じないし、世の中の多数の父の世代にとって政治は、何を言ってるか分からないうちに改悪されてしまっている。居座っている老害の面々は「マスクはいつまでしなきゃならんのかね」なんて他人事のようにほざき「他山の石」の意味もご存知ない。この国はどうやら強烈に底の浅い人間が動かしているのだ。・・・暴走しそうなので、危ない話はここまで。

 音楽界は当然ながらアチラ語だらけだが、世界共通のイタリア楽語ですら本来の意味を理解していない。フォルテやピアノ、アレグロやアンダンテなどの単語は訳して話す方が難しいが、それぞれの言葉の背景を調べると無数の気づきに満ちている。例えばアレグロは「快活な」と普通訳されるが、無味乾燥な速度表示と思っている人は大勢いる。全然違うのコンコンチキだ。アレグロとは速度ではなく表情を表す言葉だ。アレグロとしか書いていない作品は、アレグロな表情の音楽にしろと言っているのだ。もう一つ。『誰も聞き取れないからピアノで話して』と映画《ゴッド・ファーザー》の主題歌は歌う。これを知人のイタリア人は『ゆっくり話して』と訳す。そこに発想の技が必要なのだ。これらは我々には馴染み深い《楽典》という本に感染源の一つがある。プレスティッシモからグラーべまでを並べた一覧表があり、大体これぐらいというメトロノームの速度表示が記されている。そして沢山並んだピアノから沢山並んだフォルテがグラフのように書かれている。まずはあれから撲滅しなきゃならない !! 音楽にはモデラートなアレグロだって存在するし、ピアノの音楽が小さいとは限らない。みんな過剰反応してしまい、ピアニッシモはまるでカスミッシモだ。

 しかし楽譜に書き入れる注記はアチラ言葉でなければならない決まりはない。共通語のイタリア語はともかく、少し込み入った要求を、苦労して知らないイタリア語を辞書から引っ張り出して書き入れる必要はないのだ。プッチーニはイタリア語で、マーラーはドイツ語で注意書きをする。当たり前だ。母国語だからね。チャイコフスキーが『悲愴』フィナーレの胸を打つ第2主題の冒頭に《con lenezza e devozione》=《柔和で敬虔に》と書き入れているのを見て、初めて見た時は「カッコイイ」と胸ときめかせたものだが、今はどの程度イタリア語に堪能だったのだろうと疑問を覚えるのだ。これぐらいの短さなら辞書から見つけ出してくる事は容易だが、何も無理して良く背景も知らない単語を、その安易な翻訳だけを頼りにスコアに書き入れる事などないのだ。音大に行っていた頃作曲科の学生の新作を幾度も初演した。大抵その学生の指導教諭がフランス系ならフランス語で、ドイツ語系ならドイツ語で書き入れたがる。本人も悦に入っているのだが、指揮をせねばならない私にはとんとその意図が伝わらない。もちろん「このやろう、テメエ」なんて言葉はお首にも出さず、幾度も会話を重ねて彼の意図を探る。

 「なぜ日本語で書かないの?」

 と尋ねると、外国で演奏されるチャンスを考えて、みたいな事を口にする。それ、ん百年早くない?そうなった時にそうすればいい。今は日本人の指揮者と日本人のオケで演奏するのだから、日本語で書き入れた方がこの何万倍も意図を示せるとは思わない?『薄れていく朝靄のように、そこはかとなく』とか、『一面の野原に色とりどりの花が咲き乱れているのを目にして、思わず笑みが漏れたような心境で』と書けば、みんな想像力をフルに駆使して演奏できるではないか。無理して外国語に置き換える時点で、膨大な何かが中間搾取されているのだ。

 おっと、私は熱狂的な国粋主義者ではないよ。でも美しい日本語が乱れていく事に胸を痛める一人ではある。「それ違くない?」なんて耳にしたらそれこそ「その日本語違くない?」と眉を顰めてしまうのだ。星の数ほどの文学者達が言葉の乱れを憂えてきたのだろうな。

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