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グスタフの鳥35 《第9番》その2

 この音楽の始まり方はマーラーの作品の中で唯一無二のものだ。第1楽章の最初の主要主題が登場するまでの6小節は、この楽章を支配する4つの重要な要素が散りばめられるが、彼の音楽の中で最も刹那的だ。この〈刹那的〉という発想は、そのまま新ヴィーン楽派を予見させる。

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 ①チェロとホルンが受け継ぐ不整脈のようなリズム(1~2小節)。セレナーデ風行進曲の4拍子の中で、1小節内に3音を刻むという変則を見せる。一見無表情なこのリズムはこの楽章の重要なポイントで登場する。それらは概して感情的な嵐の後に印象的に鳴り響く。晩年マーラー自身を脅かしていた心臓の病を彼自身に思い出させる心的風景のようだ。私事だが、最近初めて胸の痛みを経験した際、痛みに耐えながらこのリズムを思い起こした。②ハープが単独のF♯-A-H-Aの動き(3小節)。この切れ切れの主題は明らかに第一主題を導き出す鐘の音だ。③神経質な閉塞音(ゲシュトップフ・・右手でベルの穴を塞ぐ)で登場する短いホルンの主題(4小節)。この主題はニ長調に根付いているが、閉塞音の響きは危機感を孕んでる。この主題は②の鐘の音と素材を共有している。この時点で①から③は同時に、不思議と無関係に鳴り響く。マーラーの卓越したポリフォニー技法は、こんな短い瞬間にも息づいている。そして④ヴィオラが奏でる3度(F♯-A)の6連符(5~6小節)。この長閑で緩やかなトリルは7小節目以降常に主題に寄り添う。このトリルは②のハープから派生しているが、後に神秘的な変容を見せる。ニ長調の平和な空気が危機的で深刻なものへと変化する、それがこの音楽の重要な背景だ。

 いよいよ旅が始まる。第1主題の出だしの2度の下降する動きは、②のハープ主題の最後の2音と共通するが、前作『大地の歌』のフィナーレで再三繰り返されたアルトの『Ewig(永遠に)』の動機だ。これほど露骨に前作を引き継いだのも初めてだ。第1楽章の壮大な行進曲・・・この音楽を言葉で表現するのは困難だが、それはまるでヴァーグナーが『パルジファル』の聖杯城への入場で響かせたものを、神域から人間界へと引きずり下ろしたかのようだ。長閑なセレナーデの空気を纏って始まるこの音楽は実は苦しい現実世界を歩んでおり、神聖な高みへと上り詰めようと悪戦苦闘する。この変化がこの楽章の重要なテーマだ。明らかに第1楽章はこの交響曲の中核なのだ。長く苦しい旅を経た主人公は最後、『永遠に』のテーマを息長くたなびかせるオーボエの響きを耳にしながら眠りにつく。さて、長年彼を見守り続けた鳥は、この音楽で初めて彼と言葉を交わす。もちろんマーラーの脳裏に去来する幻想だ。『告別(『大地の歌』終楽章)』で強烈な存在を示した鳥だが、考えてみればこれまでマーラー自身とは会話してこなかった。その画期的な会話は376小節目から始まる。

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 この会話は楽譜の大きな2段目から始まるが、主に三者で交わされている。フルート、ホルン、そしてチェロ・ベースの低弦だ。三人?鳥とマーラーと、あと誰?私にはこう聴こえる。鳥と直接会話しているのはホルンだが、若き時代から彼の作品を支配してきたこの楽器は、かつての溌剌としたマーラーを表している。だから鳥とマーラーは対等に、熱気を持って言葉を交わしているが、現実のマーラーは身体を病み人生の疲労を抱えている。そう、現実のマーラーは仄暗く蠢いている低弦なのだ。マーラーの精神は身体から遊離し、しかも鳥はそれに気づいている。若々しい勇壮さを秘めて多弁を弄するホルンに対して、だから鳥は必死な危機感を漂わせながら囀っているのだ。このまま若きマーラーの幻影と会話を続けては、老マーラーにとっては良くない結果を生む。その証拠に低弦のマーラーは寝苦しくもがいているではないか。だから鳥は必死でマーラーを目覚めさせようとしているのだ。ここで鳥、若きマーラー、現実の老マーラーは、これだけの音符を並べながらも、完全に独立してしかも対立せずに言葉を連ねているのは奇跡だ。対位法の極と言えるかもしれない。『大地の歌』のフィナーレでは、全ての要素が勝手気ままに動き回る究極に自由な多声音楽を書いて見せたが、第9番ではそれを自在な精神活動の対位法音楽として表した。全てが独立し自由意志を持ちながら、太極的視点では一つの惑星に住む我々人間のようではないか。

 この後精神と融合した老体は、今一度輝かしく立ち上がろうと試みるが、虚しく叶わず横たわる。しかしこの瞬間(ここは聴き逃してしまいがちだが)、二短調はニ長調へと昇華する!これまで幾度となく【長調→短調】という変化を好んできたマーラーは、その最後で優しげに救済を描く。すると鳥はこれまでの自由な天使のような羽ばたきで高みを舞い、そして徐々に下り、彼の肩にとまるのだ。と同時に冒頭のセレナーデが薄いテクスチャーでリフレインされ、天国へと階段を登るハープを伴いながら、強烈に息の長い《Ewig》をたなびかせる。まるで眠りの底へと沈潜していくかのように幕を閉じるが、最後の透き通った極めて高いDの響きが、彼の救済を予感させる。

 でもまだ死んではいないよ。死のような眠りの中で、彼は夢を見るのだ。彼の人生を支配してきた喜びと闘争が続く第2、第3楽章で語られるのだ。  (続く)

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