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グスタフの鳥34 《第9番》その1

 どの作曲家も晩年の音楽は生涯の集大成と位置付けられる。これは考えてみれば当然だ。楽想は人生の積み重ねを経てより深く高貴になり、それを音符にする手法も卓越してくる。若い頃に傑作を残した作曲家もいるが、その後の作品が演奏されないからと言って駄作だとは限らない。まあ、稀だが。楽聖ベートーヴェンは第9だけでなく《禁断の森》と呼ばれる、安易に立ち入る事を許さない神聖な弦楽四重奏世界を生み出している。いくら室内楽に不案内な私でも、その神秘的な精神世界の恐ろしき魅力は知っている。楽聖は完全に古典派から飛び出しロマン派、それも後期の調性崩壊を予感させる世界にまで踏み入ろうとしている。調性の崩壊とは、当前ながらメチャクチャ書けば良いのではない。そこには納得する必然が必要だ。個人的には完全に無調となる直前の音楽が最も素晴らしいといつも思う。無調とは究極のロマンティシズムなのだ。この事は第10番で触れるだろう。

 最後の交響曲・・・シューマンは大河のごときロマンをみなぎらせた『ライン』交響曲を書き(ご存知とは思うけれど、第4番は割と初期に書かれた作品だ)、ブラームスは生々しい感情をゴチック建設の聖堂に閉じ込めた第4番を書いた。この二人の異なる音楽世界は余人の介入を許さない神聖な作品だ。ブルックナーは終楽章を書かずに他界してしまったが、実質のフィナーレとなった第3楽章には宗教的な神秘主義が流れる神々しい神の声を響かせる。チャイコフスキーの『悲愴』は人生終焉の慟哭が我々の心を掴んで離さない。救われずに終わるという悲劇は、すぐ後に命を絶ったチャイコフスキーへの思慕を掻き立てる。逆に思いもしない救いを見せるのはプロコフィエフの第7番『青春』だ(お聴きあれ!)。キリがないがもう一人。私の苦手なショスタコーヴィチの第15番は、どんな心境からか数人の作曲家の主題を借用している。例えばロッシーニ『ウィリアム・テル』の〈スイス軍の行進〉の主題が堂々と顔を見せる。これは一体どのような心理状態なのだろう。あまりお近づきになりたくないので答えは見つからない。

 問題は〈これが最後の交響曲〉と本人が自覚していたか否かだ。知る限りにおいてこれが最後だと特別な想いを持っていたのはブルックナーとマーラーだけだ。まさか死ぬとは思っていないまでも、これが最後かも、とは感じていた。二人とも奇しくも第9番だ。ブルックナーはその最後の交響曲を偉大な楽聖と同じニ短調で書いて良いのかと悩んでいたが、Dという調性は楽器が最もよく鳴り響く。マーラーがこれまでこの調性を選んだのは第1番と第3番。しかし話はそれほど単純ではない。ここまでの彼の交響曲で、作品の入り口の調が終わりの調と同一なのは第1、3、6、8番の4曲だが、当然ながら中身は目まぐるしく転調する。とりあえず開始と終始が同じ調性ならば、その作品を○調と呼んでも差し支えないだろうが(これまでの歴史上ほぼ全ての交響曲がそうだ)、マーラーの場合前述の1、3、6、8以外は全て異なる調で終わる。特に路線を大転換した第5番、調性に新たな光を当てた第7番、声楽的な帰着点である『大地の歌』、これらは従来とは違った形での近親調への帰結を見せる。音楽が終着点を目指して変化するように、その調性も同様に何かを模索して変化するのだ。第9番は最大の変化を見せるのだ。結局従来のように交響曲を一つの調性で呼ぶ意味はもうほとんど無いのだ。

 とは言え、作曲家が無反省に調性を決める事などありえないから、彼の思考を追いかけるのはとても楽しいし意義深い。例えば第5番は嬰ハ短調という馴染みの薄い調から始まり、ニ長調へと階段を一歩上がって終わる。この効果は絶大だ。楽器が鳴りまくる幸せなニ長調のエンディングは輝かんばかりの勝利感をもたらす。これは最初からニ長調だった第1番を凌ぐ到達感だ。半音上がっているのだから我々の耳にもその響きは心地良い。不可思議なロ短調もどきで始まる第7番も大騒ぎフィナーレはハ長調だから、同じような効果をもたらすと思いきや、ハ長調という始祖の調性の持つ安定感がその効果を削いでしまう印象だ。このフィナーレの評判の悪さはこの〈輝き感〉不足のせいかもしれない。そしてこの第9番。ニ長調の不整脈で始まる音楽は、フィナーレで厳かで感情的な変ニ長調へと下がる。一つ前の第3楽章がほぼイ短調で、フィナーレはその半音下のラ♭から始まるので〈下がった感〉が印象付けられる。

 下がる。・・・埋葬されるかのように。・・・最後は生の下に広がる無限の安寧の中に身を沈めるかのように、静かに、静かに、・・・下がる。

 しかしそれは言ってしまえば結果論だ。フィナーレは安寧どころか、死にたくないともがき荒れ狂うではないか。マーラーは自分は死んでしまうのだろうが、徹底的に抵抗してやると言っている。最後の澄み切った静けさへ到達するまで、痛みに耐え、孤独に耐え泣き喚き、叫び散らす。そしてこの音楽にも鳥が、『大地の歌』の孤独に歌う鳥がいる。そうなのだ。第9番は『大地の歌』の続編なのだ。

 グスタフ、自分の耳で聴いてみたかったろうね。もし聴いていたら、どんな風に変わったんだろうな。それは答えのない疑問だけれど、頭から離れないよ。


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