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ヴォルフガング かく語りき⑧

 「僕達の上の部屋にはヴァイオリニスト、下の部屋にも一人、隣の部屋では歌の先生がレッスンしているし、向こう側の突き当たりにはオーボイストがいる。そんな訳で作曲をするには面白い!どんどん考えが湧いてきます。」(1771年8月24日 ミラノより姉への手紙)

 この日15歳のモーツァルトと父は二度目のミラノにいる。15ヶ月に及ぶ最初のイタリア旅行(父子はこの3月に帰郷したばかりなのだ)は、モーツァルト にとって光り輝くものだった。各地で神童の名を欲しいままに賞賛を得た。ローマでは教皇クレメンス14世より黄金拍車勲章を与えられ、ボローニャでは難関なアカデミア・フィラルモニカの試験に一発合格、史上最年少の会員となり、ヴェローナにおいても名誉楽長の称号を得ている。今回のミラノは、ヴィーンで幼い頃から可愛がって下さった皇后マリア・テレジアの第三皇子、フェルディナント大公の婚礼に花を添えるオペラの作曲だった。与えられた物語はジュゼッペ・パリーニの2幕の祝典セレナータ『アルバのアスカーニョ』。二人は台本も届かないままミラノへと旅立っている。婚礼は10月15日(!もう2ヶ月もない)と決まっているので、9月下旬には書き上げねばならない。後年モーツァルトは序曲など初演数日前にササッと書くのだが、今回はまだ台本も届いていてないので、モーツァルトは当たり障りのない明るい序曲を先に書いている。

 現在から見れば当時の期間の短さには驚かされる。これで本当に舞台が滞りなく進んだのかと心配になる。序曲、バレエ音楽(祝祭オペラだから必ずバレエシーンがある)などをさっさと書き上げ、台本を手にすると、合唱や幕切れの大勢が登場する場面を作曲し、二重唱、三重唱などのアンサンブルシーン、そして現地で歌い手の声を聴いてから、それにふさわしいアリアを書くと言う手順だ。それも歌い手が曲を気に入らなければ作り直す事だって起こる。万事急ピッチの作業だ。モーツァルトは「楽譜を書いて、書いて、書いて・・・」手が痛いと故郷の母への手紙に書いている。既存の作品ならまだしも全くの新作が、公演の二ヶ月前まだ姿も形もないと言うのは実に恐ろしい話だ。聴衆も今よりはずっと寛容だったのだろうな。

 ミラノでのホテルは劇場近くだったらしい。冒頭の手紙を見れば〈さすがモーツァルト 〉と賞賛したくもなるが、半分は作曲するには相応しい環境ではない事を面白おかしく愚痴っているのだ。そういえばホテルの隣の部屋からパガニーニの協奏曲を聴かされた経験がある。弾いているのはコンサートマスター某氏、しかも私と共演する予定の作品だったから、珍しく事前に「ふむふむ、なるほど、そう弾くのね・・・」と予習できてありがたかった。周りから楽器の音がするぐらい、天才少年モーツァルト にはなんでもなかったろう。この頃の彼の脳裏には明るい未来の展望しかなかった筈だ。

 しかし・・・二人の預かりしらぬ所で、閉ざされた未来を暗示するような事件がこの時起きていたのだ。

 父は息子を良い地位に就けようと、常に各地で有力者に働きかけてきた。この時ももちろん忘れてはいない。公演は上守備に終わり、おまけに大家ハッセの新作オペラを蹴散らすような賞賛を得た。ハッセは「この子は今に我々みんなを忘れさせてしまうだろう」と述べたと言う。父レオポルトも「セレナータがハッセのオペラを打ち負かしたので、これはこれはと困っているよ」と妻への手紙に嬉しそうに書いている。そしてこの成功の勢いのままに父は雇用を申し出た。もしかするとフェルディナントからそれを匂わせる言葉があったのかも知れない。二人はその返事を待ち、帰る予定を半月も延ばした。返事が遅れたのは、大公がヴィーンの母親にモーツァルトの雇用について打診していたからだった。

 「・・・あの若いザルツブルク人を雇いたいとのこと。私には何故だかわかりませんし、あなたが作曲家と言った無用な人間を必要としているとは思えません。(中略)この手の人間に肩書を与えるものではありません。乞食のように世間を渡り歩くような人達を雇うと、奉公人の品が悪くなります。」

 幼ないヴォルフガングを膝に乗せ可愛がってくれた皇后が、まさかこれほど悪様な評価をしていようとは、いくら世馴れたレオポルトでも微塵も想像していなかったろう。こんな手紙が来ていることなどつゆとも知らず、痺れを切らした二人はすっかり冬の空気が支配した12月15日頃帰路についた。そして故郷では、モーツァルト家を寛大に容認していたシュラッテンバッハ卿が他界し、翌年いよいよあのヒェロニムス・コロレド卿が赴任してくる。

 モーツァルト15歳、人生の最初の大きな岐路にいたのだ。

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