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君の話、僕の話

 自宅に缶詰の日々が増え、今まで手をつけなかった多くの事をやり始めると同時に、今まで素通りしていた多くの映画や海外ドラマを観た。そんな中に世界的ヒットとなった英国ドラマ『ダウントン・アビー』があった。これに超ハマった。19世紀から20世紀にかけてイギリスの片田舎ダウントンに城を構える伯爵一族のドラマだ。朝食はベッドで摂り、午餐や晩餐は必ず正装で迎える人々の物語だ。彼らは時代の波に翻弄されながら、新たな時代の息吹を取り入れ、考え方を進歩(あるいは退歩?)させ、貴族と平民の垣根で苦労しながら逞しく生きていく。

 いちいち正装するのだから厄介だ。男は必ず燕尾服、女性はドレスで帽子を付けたまま食事をする。私達のように時折燕尾服を着る人間には「なるほどこれってこういう風に着るものなのか」と勉強にもなる。タキシードなど着ようものなら《略式》と上の世代に眉を顰められるのだ。首が擦れて血が滲まないか、と心配になる程ノリの効いた立ち襟のシャツの前面は、ボールも跳ね返すのではと思うほどシワ一つない。階級意識は城で働く人々にもある。執事と下男では天地ほども待遇に差があり、執事長が彼らの部屋に姿を見せれば、全員が何をしていようと立ち上がって礼を示す。演奏会で楽員の方々が立つのは案外こんなところに歴史の発端があるのかもしれない。

 少し脱線するが、演奏会で指揮者が入場するとその足音を聞いてコンマスが立ち、次いで楽員全員が立ち上がるのが普通だが、立った後楽員さん方が(指揮者と同じように)客席に向いているのをよく見かける。これは本当はおかしいのだ。元々楽員さんが立ち上がるのは、いわば指揮者に対する礼儀なのだ。だからコンマスと握手を交わし、「今日も皆さんよろしくね」と指揮者がオーケストラに挨拶をし、それからお客様に深々とお辞儀をする間、オーケストラは微動だにせず指揮者に向かって立っているのが本来の姿だ。その時楽員さんはお客様に頭を下げることはないのを見てもそれが分かる。異論も沢山おありだろう。そこまで敬意を示せない指揮者だってきっと大勢いるし、演奏者だってお客様に礼を示したい。最近は終演間際にオーケストラ全員が客席に深々とお辞儀する事が多くなった。日本人としては全くもって美しい光景と感じるが、舞台マナーとしては基本的に楽員さんはお客様に向かないし、頭を下げない。ソロや室内楽以外はね。昔から音楽家は雇い人としては低い階層だったのだ。『ダウントン・アビー』の中でも、客人が帰る際見送りに出て挨拶するのは一族の方で、必ず横にいる執事以下の使用人が頭を下げることはない。おっと、演奏家を蔑んでの話ではありませんからね。あくまで歴史の話です。

 ドラマのある回で、少し奔放な親族の若い女性が黒人のミュージシャンと恋に落ちる。一族の長女は彼女の行く末を案じて、そのミュージシャンに話に行く。まだまだ黒人差別真っ只中だ。二人がレストランの席に着いていても、周りの客は眉を顰める。そんな時代だ。彼はしかしとても道理を理解しており、その彼女のために身を引く事を約束する。その時彼はこういうセリフを口にする。

『もし世界がもう少し優しかったなら・・・』

 この言葉は胸に刺さった。そうなのだ。肌が黒いのは、肌が白いのと同じなのだ。世の中、攻撃する事しか頭にない人間は多い。長女は去り際こう口にする。「もし世界がもう少し優しかったなら、私はあなた方を応援していましたよ」と。

 もし世界がもう少し優しかったなら、争いや差別がもっと少なくなったろう。もし世界がもう少し優しかったなら、富める者と貧しき者の差が狭まったろう。もし世界がもう少し優しかったなら、貧困や飢餓で亡くなる命は減り、誰もが生涯夢や希望を語り合って生きていくだろう。もし世界がもう少し優しかったなら・・・

 叶わぬ夢なのだろうか。多分違う。叶えようとしないだけなのかもしれない。

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