見出し画像

ヴォルフガング、かく語りき⑯

 我々の富は僕たちが死ぬと同時に無くなってしまうのだから、金持ちの妻は必要ない訳です。僕たちの富は頭の中にあるのですからね。そしてその富は、僕たちの頭を切り落とさない限り、誰も僕らから奪う事はできません。そして切り落とされたら、その時はもう何も手に入らなくなります。(1778年2月7日 マンハイム)

 金持ちの妻はありがたいと思うけどね(笑)。芸術に携わる人間の気概と言うか、最後の砦・・それは自分の芸術的な価値を自らどうアピールできるか・・は他人様には見せる事の叶わない自分の中にある〈才能〉だ。モーツァルトが晩年にかけてかなり困窮した状況に陥った事実は、全てはこの考え方に集約されそうに思う。父レオポルトの友人に「才能はあの半分でいいから、もっと世渡りの才を身につけねば」と言わしめた理由は、この才能の自覚にあったろう。

 最近本格的にハイドンの作品に触れつつある。長い間食わず嫌いだったハイドンの作品は、驚くほどにモーツァルトの名作の原点だった。それどころか、もうひと世代次のベートーヴェンもハイドンの中に種子を見出せる。モーツァルトは本当に勉強家だったのだ。だがハイドンに溢れ、モーツァルトでは爆発し、ベートーヴェンは決して目を向けなかったものが一つある。それは〈遊び・冗談〉だ。それほどにハイドンの音楽は遊び心に満ちている。モーツァルトは音楽よりも、どうも実生活で爆発しているようで、作品はニンマリとはしても笑い声はあげない。だがハイドンのは本当に笑ってしまうのだ。突然びっくりするような巨大な音を出させるなんて事は、モーツァルトは考えもしなかった。何故か。それは美しくないからだ。だろ?ヴォルフガング。ハイドンは美を犠牲にしてでも楽しませる、超一流のエンターテイナーだ。同時に胸の奥底から湧き出た清水のような美しい作品や、楽聖に受け継がれる苦悩する魂の音楽も残している。本当に何故モーツァルトのように世界中がのめり込まないのか不思議でならない。おっと、自分もつい最近まで知らなかったけどね(笑)。

 モーツァルトが他界する頃、ハイドンは最後のロンドン交響曲(104番という意味ではなく〈ロンドン・セット〉つまり93番以降の作品)を書き始めた。99番以降オーケストラの編成は安定した2管編成となり規模も拡大する。それでもベートーヴェンが第1番を書くよりだいぶ前の話だ。しかしハイドンは最後の104番『ロンドン』を書いた後死ぬまでの13年間、一曲も交響曲を書かなかった。いや、書けなかったのかもしれない。没年にはベートーヴェンは第5番を発表している。「わしにはもうあんな作品を書く力はない」と思ったろう。

 ハイドンはモーツァルトのようにミステリアスな晩年は迎えていないし、ベートーヴェンのように〈芸術は爆発だ!〉的な人生は歩んでいない。長年一つの家に仕え続け膨大な作品を生みだし続けた、良き夫、良きパパのような人生だった。だから最初に触れたような遜色ない才能を当然持っていたに決まっている。モーツァルトの父レオポルトのイメージとどこか重なって感じてしまうが、才能はレオポルトの比ではなかったのだ。そしてそれ以前の大家達も、それ以降の巨星達も変わらない。ただ違いは、モーツァルトのようにその才能を自覚し自慢したかどうかだ。

 ヴォルフガング、君ほど自分の才能を理解していたら、逆に色々辛かったろうね。だって明らかに君より才能のない人物が、良いポジションを占めていたのだからね。でも今ではね、そんな人達の大半は忘れ去られているよ。そしてさ、奥さんが大金持ちでも良かったかな、と今では思うだろ(笑)?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?