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グスタフの鳥8 《第3番》その2

 牧神パーンについて調べたのでついでに。

 ドビュッシーの『牧神』の影響で長閑なイメージを持たれがちな牧神だが、見た目はどうやらとんでもない。パーンは伝令神ヘルメスの息子で、頭にはヤギの角が二本生え、髭を蓄え上半身は毛深く、脚はヤギの足そのもの。彼が発する雄叫びは聞く者を混乱に陥れる(これがパニックの語源)らしく、オリュンポスの神々と巨人族ギガースの戦いの折、その声はとても役に立ったらしい。いつも手にしているシュリンクスの笛は、追いかけ回したニンフ(妖精)が逃げきれずに姿を変えた蘆から作られたのだという。その笛は後にヘルメスによって盗まれアポロンに渡され、アポロンは音楽を奏でる神になったらしい。

 ヘルメスの息子以外にも、ディオニュソスの息子にも同名のパーン神がおり、区別するためにヘルメスの息子はヘルモパン、ディオニュソスの息子はディノパンと呼び分けるらしい。(・・・て事は、チノパンてのは茅野市出身の・・・関係ないか。)日本神話と同じく様々な神が登場するギリシャ神話だが、これは国や地方によって伝承が変化したのだと想像できる。『古事記』に記されている国作りの神話も、読み様によっては聖書の『創世記』とオーバーラップする。一つの名前が違う言語で大きく変化するのは今も同じだ。だってモーツァルトはフランスではモザールだからね(笑)。文字でなく音で伝えたらそのうち全く違う名前になり、何世紀も後には別人物だと思われるかも。

  シュリンクス(またはシランクス)の笛は沢山の作曲家に霊感を与えたが、ドビュッシーは『牧神』以外にもそのものずばり『シランクス』(最初は『パーンの笛』という名だったらしい)というフルート曲や、連作歌曲『ビリティスの歌』にも登場する。印象派の繊細な音楽にはうってつけの題材だが、これがマーラーになると、猛き神パーンのイメージが前面に出る。第1楽章のドラマチックさは、混沌からこの世界を生み出した神話の神々を彷彿とさせる。だが思うに、本来神とは人格を持った存在ではなく、もっと汎世界的なエネルギーの様なものではないかと私は思う。超越した存在への畏怖と敬意が、マーラーの直感の根底にはありそうだ。

 「ピリリ・ピリリ・ピリリ」の囀りに触れたが、第1楽章には他にもフルートの伸びやかな歌や、沢山のトリルを伴った木管楽器群の楽しげな声など、様々な鳥の声が聴こえる。『野の花々が私に語る事』と題された第2楽章では、下降する半音階の3連符で優しい囀りをフルート群が聴かせ、まるで蝶の様に花々の間を軽やかに飛びかう様子も見せる。『森の獣が私に語る事』の第3楽章では、舞台裏から響くポストホルンの長いソロに絡んで鳥が長閑に囀る。ところでこの楽章で聞こえる沢山の声の中に、一際甲高い短い叫びがある。「これって『瓶ビール・瓶ビール!』と聴こえますよね」と友人が指摘して以来、それ以外には聞こえなくなった(笑)。これ何の声だろう。

 第4楽章『夜が私に語る事』はアルト独唱の神秘的な歌曲だが、オーボエが上行型の印象的な短いカデンツァを4回奏でる。夜のしじまの中で声を上げるのは鳥か獣か。このモノはふと目を覚まし身動きすると、すぐまた眠りにつく。これもまた自然が作り出した命の息吹には違いない。第5楽章『天使が私に語る事』では随分と待たされた児童合唱、女声合唱が登場する(笑)。この賑やかで無邪気な楽章は次作第4番と結びついている。この音楽の中にあからさまな鳥の囀りは感じられないのだが、最初マーラーが付けたタイトルは何と『カッコウが私に語る事』となっている!それが次に『朝の鐘が』となり『天使が』に落ち着く。音楽の発想を変更したのか、今鳴り響く第5楽章にカッコウの声は聴こえない。だが中間部アルト独唱が声を響かせると、それに絡む様に少し悲しげな声がオーボエで聞こえる。これがカッコウなのだろうか。

 『愛が私に語る事』と題されたフィナーレ第6楽章は、第5番の第4楽章アダージェット、第9番の感情的な終楽章と並ぶマーラー美の極みだ。心揺さぶる美しい旋律が際限なく歌い継がれ、幾度もの激しい頂点を築く。この音楽にも鳥はなかなか顔を出さない。自然全てを描こうとしたこの第3番だが、終楽章は愛に満ちた人間を描いているからだ。だがその終着点、金管楽器の最後の美しいコラール(マーラーは金管楽器も歌うのだ!)の直前、天使の金管楽器を導き出すかの様にわずか5小節、フルートとピッコロの静かな歌が響く。『復活』最後の『大いなる呼び声』の鳥とはまるで異なっているが、ピュアな声で天使へ呼びかけ、そのまま天の高みへと飛翔する。最後のピッコロは上に向かったまま途切れる。途中でやめたのではない。高く遠く見えなくなったのだ。そしてこの姿を消した鳥は、約8年後の大作に舞い降りて姿を見せるのだ。お楽しみに!

・・・ああ!グスタフ、何度聴いても美しいよ!

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