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ヴォルフガング、かく語りき ⑪

 『僕は詩のようには書けません、詩人ではないから。言葉をうまく配置して、影と光が生じるようにはできません、画家ではないから。手振りや身振りで、気持ちや考えを表すこともできません、舞踊家ではないから。でも僕は、音をもってならそれができます。僕は音楽家だからです。』(1777年11月8日 マンハイム)

 この世で最も恥ずかしい行為は、知ったかぶりかもしれない。いつの頃からかそれだけはするまいと決意してきた。知らない事は恥ずかしがらずに知りません、と口にしてきた。知らない事があまりに多い事についてはこの際目を瞑ろう。気をつけねば、思わぬ近くに何かしらの専門家がいるものだ。しかし注意して見回すと、知ったかぶりやそれに近い嘘は案外溢れている。どうでもいい事から深刻なものまで、世の中には嘘が溢れている。最も身近な多くの例は外国語絡みのものに多い。

 私も人並みには酒が好きだ。病気をしてからあまり飲めなくなったし、酒の嗜好も変化したけど、変わらず好きなのはビールだ。それも黒ビールがお気に入りだ。〈黒〉と付いているがドイツ語では〈暗い=dunkel〉ビールと表現する。当然普通のビールは暗くないのだから〈明るい=hellen〉ビールとなるのだが、〈明るい〉は普通省かれる。ところでビール(Bier)は中性名詞だから、その前につく形容詞は中性名詞へつながる語尾変化が必要で、普通のビールは helles Bier 、黒ビールは dunkles Bier となる。発音はドゥンクレス・ビアだ。ところが、ドイツビールを売り物にしている店のいくつかは、これを何故かデュンケルと記している。テレビのCMでも堂々と〈デュンケル・タイプ〉とかなんとか言っちゃって、さもドイツビールのように売ってらっしゃるが、そもそもデュンケルと発音するドイツ語はないし、せめてドイツ語ぽくデュンクレス・ビアと言うならまだしも、言葉も文法も発音も無茶苦茶なのだ。

 こういう例は恐らく日本には星の数ほどある。言いたいことは一つだ。『知らないのなら使うな!』こう言う感性は日本人として本当に恥ずかしい。知ったかぶりは、知った人から見れば赤面ものだ。自分もやっているかもしれない。本当に気をつけねば、陰で笑われているのだ。日本語で言えるのに、わざわざ横文字に置き換えて「それについてのエビデンスが・・」とか口にする政治家ぐらい恥ずかしい。

 強烈な赤面話をもう一つ。ある演奏会の後、無理矢理地元の方に連行されあるスナックに入った。そこでその町のあるお偉い先生にお会いした。なんの話からか指揮者の話になった。すると酔眼のその先生は「指揮者」という言葉に耳を止め、こちらの宴席にズケズケ入っていらした。そしてなんと、指揮者というものについて熱く語り始めた。私を連行した方々は下を向く。誰も私が指揮者である、と口を挟めずにいた。私ももちろん口にしない。その先生は私に、「君には分からないだろうけど(!)、指揮者というものはねえ・・・」と御説を語り続け、あろうことか目の前で立ち上がり指揮もやって見せた。どうなったか、て?私はどなたであれ面と向かって恥をかかせる趣味はないので、御説を拝聴し、適当に話を合わせましたよ。思ったよりずっと早くお開きになったのは言うまでもない。まさかいつも自分が根城にしている酒場に、本当に指揮者がいるなんて普通考えないだろうな。どこに誰がいるか分からないから知ったかぶりはやめよう、という話だ。

 今回のモーツァルトの手紙は、お父さん宛のもの。この言葉だけでも彼がいかにプロフェッショナルな意識で生きているか分かろうというもの。芸術分野に限った話題だったのにも関わらず、自分は音楽家なのだ、という正いプライドがモーツァルトを支配している。自分もかくありたい、と思わされる。

 この手紙の後半、父親の末永い幸せを祈って次のように書かれている。

『音楽において作るべきものが無くなるのに要するのと同じくらい長い年月を、パパが生きて下さるように祈っています。』

 これほどセンスよく気の利いた言葉は、そう簡単には生み出せない。ヴォルフガング、これは君が口にした言葉の中で僕が一番好きなものだよ。

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