見出し画像

小学生のベース作り

『当たり前』とは人それぞれで、生きてきた人生観で変わる。誰の『当たり前』で考えるかで視点は変わり、
当時私は「誰の当たり前」で生きて行けばいいの分からなかった。

理解されなかった関係

私が小学3年生ぐらいの頃、あるゲーム機が凄く流行った。そのゲーム機で遊ぶのが当たり前で、持っていない人は厄介な存在だった。

私はそのゲーム機を持っていなかった。いや、持つこと自体が親の教育方針で禁止されていた。

友達ー
「ねぇ今日、一緒に遊ぼう!」
私ー
「うん、いいよ。どこで遊ぶ?」
友達ー
「◯◯ちゃんの家でゲーム機で遊ぼうよ!」
私ー
「ごめん、ゲーム機持ってないんだ」
友達ー
「えー、じゃあお父さんに借りなきゃ〜。面倒臭いな〜」

そんな感じの会話が連日。
小学生にとって遊ぶ約束をするのは日常会話。
学校に行って友達と会い、放課後遊ぶ。
当たり前のことだ。なのに、

なのに私はゲーム機を持っていないという劣等感から、自分から遊びの誘いが出来なくなった。はじめは家で遊べない物で遊べる楽しさがあったが、繰り返すうちに遊んでも慣れないゲーム機の遊びはいつも最下位で楽しくなかった。

私ー
「ねぇゲーム機買って、本体だけでいいから」
母ー
「なに言ってるの、ダメって言ってるでしょ」
私ー
「だってゲーム機ないと遊んでもらえない」
母ー
「バカなこと言わないで、外で遊んでる子もいるでしょう」
私ー
「一緒に外で遊んでくれる子がいない」
母ー
「探せばいるわよ。それより宿題ちゃんとやりなさい」

拙い言葉の訴えは「大人の壁」には届かなかった。

『探した、探したよ、一緒に外で遊んでくれる友達。でもいないから、一緒に遊んでもつまらないから言ってるのに。どうしたらいいの・・・』

その答えを与えてくれる人はいなかった。
頭の中に浮かんだ言葉や文章は心を苦しめ深い海の色に染めていった。

そんなある日、下っていた川が突然滝になるように現実を目の当たりにする日が来る。

#自分らしく生きる
#自分の心に嘘をつかない
#感情は思考が作りだすもの
#精神病の奮闘記
#声無き叫び