詩篇51篇にみるキリスト教徒の「絶対に無駄にならない努力」
キリスト教徒は、神が自分に望まれる選択をしようと努力していても、時には間違いを犯してしまうことがある。
しなければよかったのにと思うようなことをしてしまうことがある。
そのようなことがあると、がっかりしてしまったり、自分はもうだめなんじゃないかと思ってしてしまう。
しかし、聖書のことば、いのちの言葉に希望がある。
イエスを信じるキリスト教徒は神の子供なのだ。
ダメではないのだ。
神は私をあなたを愛しているのでイエスさまを遣わしてくださった。
そしてイエス様は私の、あなたの罪をその身に受けて、私たちが悔い改めて進歩し続けることができるようにしてくださった。
あの偉大なダビデ王も人妻を寝取るという大きな罪を犯した。
けれどもダビデ王は預言者によって罪を示されたとき、神に望みを抱いて祈ることができた。
「詩篇51篇」はその時にダビデが謳ったものだ。
詩の中にこういうものがあった。
ここでダビデが使った「造り」は創世記1章1節の「創造した」と全く同じ言葉だ。
神が何もないところから何もないところに全世界を造ったように、私の心にきよい心を造ってくださいとダビデは謳ったのだ。
神は、無から有を造られた神。
だから、このお方に望みを抱き、祈ることができる。
人を愛する心を私のうちにつくってください。
人を赦す心を私のうちにつくってください。
神よ 私にきよい心を造ってください。
と、望みを抱いて祈ることができる。
地域教会は、「曲がった邪悪な世代のただ中」でダビデの祈りを自分たちの祈りとする。
心の葛藤、悩み、苦しみ、そこから生まれる祈りは、絶対に無駄にならない努力である。
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