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59年前のインドネシアで今日起きたこと クーデター未遂とその後に続く大虐殺

朝、寮の外に出て何気なく周囲を見渡すと、なぜかインドネシア国旗が半旗(半分しかあがっていない状態)になっていました。
スタッフに「何かあった?誰か死んだのか?」と聞いたら、よくわからないといって別のスタッフやマネージャーに確認しに中に入っていきました。

マネージャーは「今日何があったか知っているか?7人の将軍が殺された日だ(正確には6人殺され1人は未遂)。だから犠牲者を弔うため半旗を掲げているのだ」と説明してくれました。

この事件はインドネシアの歴史上、最も重要な出来事の一つですから記事にしておこうと思います。

この事件をきっかけに、スカルノからスハルトへ権力が移行し、インドネシアの国体が大きく変わりました。
それと同時に数十万人(一説には50万人とも100万人)の共産党員あるいは疑われた無関係な人びとが殺される大虐殺が起きました。


1.クーデター以前の体制

1945年の日本敗戦と、その後につづくオランダとの独立戦争を経て、インドネシアはスカルノ大統領による政治が続きます。
スカルノ大統領の政治は、軍、イスラム教、共産党の3つの勢力をうまくバランスさせることで成り立ち、スカルノだけがこのバランサーになれるという状態により権力を維持していました。
いわゆるナサコムです。

ナサコム(NASAKOM)」というスローガンである。これは、NAS=Nasionalisme(インドネシア国民党に代表されるナショナリズム)、A=Agama(ナフダトゥル・ウラマーを代表とする宗教組織)、KOM=Komunisme(共産主義)の三者一体によって挙国一致の翼賛体制を支えるスローガンであった

ウィキペディア 9月30日事件

この頃のスカルノの外交方針は反米です。1955年にはアジアアフリカ会議を成功させ、小さく弱い途上国が集団となって大国に物を申す体制をつくりあげました。

さらには中国共産党との接近を強めた時期でもあります。
このため西側諸国との経済的なつながりは途切れ、インドネシアの経済は悪化していきます。
日本は1958年にインドネシアと平和条約を締結し、戦後賠償として2億ドルあまりを支払った関係で、賠償がらみのプロジェクトが多く立ち上がり、関係は保っていました。

デヴィ夫人がスカルノの第3婦人として送り込まれたのもこの頃の話(1959年)。この辺りの話にご興味がある方は絶版になってしまったようですが、ガルーダ商人を読んでいただけるとわかります。

2.クーデター未遂

1965年9月30日から10月1日の未明にかけ、7人の将軍が自宅で襲われ6人が殺されます。
かなり残酷な殺され方で、殺害のあとまとめて古井戸に放り込まれています。

クーデターのきっかけ、誰が首謀者だったのかは謎に包まれています。
国軍と共産党の権力争いが高じて、共産党系の軍人が国軍の将軍を排除しようとした形になっています。

結局誰がうまく立ち回ったのか、得をしたのかを見ればスハルトですから、わたしはスハルトがこの話に関わっていたのは間違いないだろうとみています。
この時スハルトは少将で、戦略予備軍司令官です。無傷のまま、配下の軍を指揮して一気に反乱軍を制圧しました。

同時に大統領のスカルノの行動を見れば何も知らなかったとは思われず、ある程度事前に分かっていたと思います。
それでもクーデターに対しあまりに無策ですし、その後スハルトに権限移譲をする羽目になり、さらには共産党員虐殺のお墨付きまで与えてしまいます。

この辺りが謎を呼ぶんですよね。

3.大虐殺

大虐殺という言葉が大げさに聞こえないほどの虐殺が行われました。
このあたりは以下の本をお読みいただけると分かります。

わたしはこの手の話が苦手でとても嫌いなので、この記事では詳しく書かないでおきます。

この虐殺は映画化もされ、当時の虐殺に関与した人間がどんな人間だったのか、何を考えていたのかが明らかにされています。
町のチンピラ(プレマン)が、好き放題暴れていいと言われ、気に入らないやつがいれば共産党員だと言いがかりをつけ殺しまくった、しかもお金ももらったというとんでもない状態です。

4.スハルト体制

スハルトが大統領になったのは事件から2年半後の1968年3月のことです。
周到に権力を奪取し基盤を築いたあとで大統領になりました。
スカルノは事実上の自宅軟禁のまま、1970年失意のまま亡くなりました。

スハルト大統領は反共産主義、親米路線を取り、ここから経済は急回復していきます。
西側諸国からの経済援助も増え、日本の円借款も1968年に開始されています。

スハルトは性格はともあれ、結果を出した大統領といえます。

5.インドネシア人たちはどう思っているのか

インドネシア人と政治の話をすることはあまりありません。ただ、一部の人間は政治の話をするのが好きなので、そういう人たちと話をして少しずつ理解が進む感じです。

まず、スカルノとスハルトのどっちが人気かといえば、断然スカルノです。
ただ、わたしが勝手に右派・保守派とカテゴライズしているインドネシア人の中にはスハルト派も多いです。
スハルト派はこう言います。「スハルトがいなければ、インドネシアはあのまま共産党国家になっていたんだぞ。ベトナムみたいになっていたはずだ。」
民主主義や人権を無視したではないかという批判に対しては「スカルノのいう”指導する民主主義”が民主主義だったとは言えないだろう。経済発展のためには独裁が必要なタイミングがあるんだ。どの国だってそうだろ?」

わたしはスカルノ派ですが、彼らの言い分が正しいと認めざるを得ません。
なので、わたしはスハルトの暗さ、陰謀好きなところが好きじゃないんだという性格面の批判がどうしても多くなります。

共産党アレルギーがとても強い
インドネシア人の中には、全体的に共産主義者への警戒感がとても強いと思います。
彼らを野放しにするとまたクーデターや国家転覆をたくらみかねないとか、国家が混乱するもとになるという警戒感です。

なので、この国で共産党の結社・結党が認められることはないでしょうし、国家が活動を禁止したとしても国民は反対しないでしょう。

日本には共産主義者はいるし、共産党も存在するというと、驚くインドネシア人がいます。

以上、60年近く前の事件の振り返りでした。




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