ハク。「自由のショート」について
カーラジオから流れてきた曲が気になったので、iPhoneのミュージック認識機能を使って調べてみると、どうやら“ハク。”というバンドの「自由のショート」なる曲だという。
軽やかに響くミュートギターのリフが心地よいイントロから、メロディーとヴォーカルに寄り添うリズム隊の優しさを感じる、非常に良い楽曲(というかバンド)だなあと思うのでした。
そうして何度か聴いているうちに、ここ最近の若いバンドにあって、ずいぶん歌詞が面白いな、と思うようになりました。そうやってまた何度か聴いていくわけですが、うんやっぱり歌詞がじんわりいい感じに響き渡ってくるな、と思うのです。
ぼんやりとした祈り。“数年後”という期限設定の曖昧さ、“この会話”の内容は明示されておらず、“強くしますように”の強さが何を指すのかはこれまた漠然としています。
この一節は、解釈しようによっては「ただこの瞬間が数年後とかにまでずっと続いていればいいな」という、未来の消極的で弱々しい否定にも考えられます。ただ歌詞全体を見ればそういった現状維持やモラトリアム的な時空の延長線をこれからもできる限り引き伸ばしていけたら、といったようなものでないことが分かります。ざっくりと、「今は今、この瞬間はこの瞬間として、きっと未来に向かって積み重なっていくんだろうね。」という。そういう意味でも、この一節のもつ“ぼんやりとした祈り”には惹かれてしまいます。
“涙拭く木綿のハンカチーフ”が“最後のわがまま”だったり、“見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ”りと、古今の歌詞に織り込まれる諸々の祈りについて(これを“願い”と表現しないのは個人的な感覚なのですが)、その抽象度は時代を経るごとにある程度強化されているように思います。最終的には“とりあえずアレください”なので、まあ確かにそうかもね、という感じがするだけなのかもしれませんが。ただやはり、感覚的には日本語歌詞の抽象度というのは年々高まっており、ニコニコ動画を中心とするボーカロイドの隆盛はそれに拍車をかけたように思います。まあ、「抽象度上げ切ったせいで何か言ってるようで何も言ってないじゃないか。」と思われる歌詞もあるにはあるわけですが。その辺の塩梅って難しいね。
ハク。は平均年齢19歳、ということで、もしかして若い世代の表現における言語感覚というのは、抽象度を極限まで高めるよりも、ある程度現実的な感覚に立脚した抽象度を適用している、言うなれば「地に足のついた抽象表現」なのかもしれません。
いつかは大人になっていくし、“この会話”も忘れてしまう。ただ何か、素敵で煌めいていて、ぼんやりと「よかったな」と思える感覚だけが残る。その感覚を掴んだ“瞬間”をずっと噛み締めていたいけど、ああでもどんどんぼんやりとしていくんだろうな。そんな寂寥感も、楽曲の中に巧みにブレンドされているように思います。
“絶対”と言い切った今を“噛み締め”ることと、“何気ない瞬間”を“瞳の奥”の“どこかで思い出す”と期待すること。このふたつは対比のようであって、どこか同じものであるようにも感じられます。
噛み締めると決意した“今”も、揺れ動くような“何気ない瞬間”も、きっと時の流れの中におぼろげに消えていくだろう。そういう予感を醸し出しながら、それでもなお“この会話が僕らを強くしますように”と祈らずにはいられない。時の流れ、時間や分や秒という矮小な尺度を超えて、未来に流れ着いてほしいという祈り。ちょっとハスキーな歌声がそれを彩って響くとき、また私も祈るような気持ちで夏の夜を過ごすのです。