距離感

世の中は微妙な距離感で成立している。例えば、友達の定義なんて言える人間は未だいないし、最近話題の年齢自認とか、多様性とかもそうである。自分が良かれと思った行動ですら、他人からしたらただの迷惑になることもある。なんてめんどくさい。しかもこの距離感を一人一人掴まないと親交を深められない。簡単なようで簡単じゃないゲームを我々は生きている。ただ、世の中の大半の人はこの距離感の把握をそれぞれの立場で完璧にこなしている。中学生なら休日にプリクラを撮ったり、高校生なら定期的な遠出や部活、大学生なら定期的な飲み会と長期休暇での遠出。みたいな年代別の普通の人がやってそうなことを満たすことでこいつは自分の仲間だ、距離が近いんだというのを初めて確認することができる。他の生物も同じだろう。色が違うものは群れから切り離され、生存の確率が大きく下がる。おそらく現代の人間においてこの仲間を判別する基準が一般的な行動をする、ということなのだろうと思う。さて、特に日本人は厄介である。何かをしてもらうのがどこか当たり前で、直接的な表現をしたがらない。誉めていると見せかけて貶しているというとんでもない表現方法をする文化圏すらある。距離感を精神的そして物理的に捉えるのが苦手な自分にとって、日本で生きるのが生きづらいと考える時期があった。しかし、日本のルールで生きてきた自分にとって、いきなり海外のルールで一生生きていけるのかと言われたら分からない。海外の田舎なんてトイレのクオリティが大きく下がる。リーズの男性便器なんてただの鉄の板だった。日本ならどんな田舎でもウォシュレットがあるトイレはある。探さないとだけど。そんないろいろな障害を乗り越えた先に新たな世界が見えるのだろう。なんで距離感の話ししてこんな話になるのだろう。



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