無力

人間それぞれ違う前提を持っている。例えば1日に2回風呂に入るのが普通の人もいるし、1日6食が最低限のボディビルダーもいる。そんな前提の違いは笑いに出るという意見をネットのどこかで拾った。なんだやねんというお笑いの決まり文句があるように、人はちょっとした価値観の違いを笑いにする。俺の周りでも試験に落ちることをネタにしてやばーとかうっすい会話を広げる奴らがいる。それも試験は基本受かると言う前提があるからである。まあ試験に落ちる前提な俺もどうかと思うが。最近面白いなと思うのが、人間は言葉の表現によって受け取り方が大きく変わるということである。今書いた価値観の違いなんて、言い換えればお前変だよと言って仕舞えば差別とも取られかねない。差別と区別、放置と自由、似ているようで捉え方次第で賛否が出るものなんてこの世にはいくらである。そんなこと考えていると、他人について、ひいては周りや社会についていちいち考えているのがバカらしくなる。俺は相手の考え抜いたお世辞一つですぐに調子に乗るし。本当はバカにしてるだけだとしても。それが本当に心から出た言葉なのかもしれないけどそんなこと考えるだけ無駄であろう。だからめんどくさい。だから俺は世渡りが下手なんだろう。俺を好きだと言ってくれる人は、普段『普通』の人とのそういった駆け引きに疲れた人が、俺みたいに感情が全部顔に出るような単純思考なやつを見て安心するためなのかなとも思えてきた。あれ、俺疲れてる?そんなことはさておき、今の世の中は、建前を意識しすぎて後に引き下がれなくなっている気がする。マイノリティの尊重だとか、いろいろなことを考えすぎて本来の形を失ってるものを見ると涙が出てくる。肩にはめられた流行なんて、文字に出して考えてみれば単なる人が作った固定観念にすぎない。しかし特に若者はそれを基準に自分達の充実度を測り、その基準を満たさなかったものたちを下に見て安心する。そんなきったない幸せがあるだろうか。さっき描いた自分の他人についてだけど、俺はあんまり遊びとかに誘われない。多分、あいつらはあいつらで『普通』を共有している奴らと肩が決まった充実のポートフォリオを満たしにネモフィラでも見に行くのだろう。そこに特別型の決まってない俺は不要と言うわけだ。俺みたいな奴は今の季節の海浜公園に行ってもモーリーファンタジーをやろうとか言い出す。そんな人間は必要ないのだ。俺疲れてるな。
俺が人に変わっていると言われるのはきっとそう言った基準を満たそうとしないからだろう。自分自身そこに飛び込まないことに一種の自信がある。しかし俺にはそんな『基準』から完全に脱却する自信がない。本当にそこから脱したければ、全身タイツで毎日過ごせばいいし、なんならアメリカでもヨルダンでも行けばいい。それができないのは、俺も俺なりに社会の中で生きてきて、それなりの制限のある家庭で育ったからで、コンビニの壁を舐めるとか、大学でボディペイントし出すとか、本当にぶっ飛んでるような行動ができないようにプログラミングがされているわけだ。悲しいし、悔しいが、リトルタツヤは諦めきれないのか、この制御された自分の中で少しでもシステムエラーを起こせるように努力してしまう。それが手遅れなのも気づいてはいるが、止められない。悲しい。
なんて中身のない人間なんだ俺は。悔しい。
世の中の前提がなければ自分を立てられない。人とは違うと思いつつも形によって自我を保っている奴らと何も変わらない。
元気出せよ俺

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