平等

知り合いが亡くなった。というか塾の生徒が。水難事故だという。決して接点が多いとは言えないが、最近は塾でよく担当していたし、辞める気ではいるがもし辞めるのが面倒になって、来年もバイトを続けていたらたくさん受け持っていたことだろう。実に悲しいし、涙も少し出そうになるが、恥ずかしがり屋な俺のメンタルがそれを許さない。そんなことはさておき、その子の将来などうなっていたんだろうか。YouTubeやってたかもしれないし、立派な社会の歯車になっていたかもしれない。そんな希望を持った人間が水に溺れて死ぬという、毎年必ず起こるイベントに引っかかるとはね。実にあっけない。俺は悲しんでいるが、俺にも俺の人生がある。それは遺族の方も、友達の人もそうである。例えば、俺は明日くらいまでにはバイト先のBBQに参加するかを答えなきゃいけない。みんな知ってる人が死んでるのに呑気だなとか思うけど、彼らからしたら別にそれはそれ、これはこれくらいの感覚でしかないんだろう。それは悪いことではない。原始の時代なら人の死をいちいち長い期間悲しんでいたら肉食動物に襲われてしまうし、それこそ言ってしまえば他人の人生である。しかし、現代である。記録が永遠に残せる今すぐに切り替えてしまうどうなのだろうか。俺は変である。普段適当にしか対応しないくせにこんな時にだけ偉そうにする。めんどくさい野郎だ。しかし、もう少し人の死に対するなんというか、誠意を持った反応をしてくれる人が増えたらいいなと思うばかりだ。
こんなことを考えながらまた別のアイデアというか、考え事が浮かぶ。社会は実に不公平である。慶應高校みたいに、自由で野球部の悪いところ無くしたバージョンみたいなのが髪、休日、ひいては人生をかけて生きてきた高校球児達を倒していく。そして卒業後大手企業に就職。他の高校のベンチにも入れなかった人たちのことを考えると悲惨である。全て野球してきたような人間が入れるような名門大学はそう多くはない。世の中いろんなことがあって、そのほとんどが不条理なことばかりである。人ごとに出来不出来があって、ある一定の基準で人間の良し悪しを図ってはマウントを取るやつばかり。生まれた環境だとか、言い訳だとかいう奴もいるけど、何もせずに目標を達する人と、死ぬほどもがいても達成できない人がいる。人の嫌な部分を詰めたみたいなやつが長生きしたり、世のためになる人間が早死にしたり、数えればキリがないほど不条理に溢れるこの世界で我々は生きている。だからこそ楽しい瞬間があるんだろうし、よく言われる「美しい」という表現を人生にするのだろう。濃淡。それこそが人生のいいところであり、悪いところである。

水難事故という、最後まで訳がわからなくなって苦しんで死んでしまったんだろう。辛かったよな。よく頑張ったな。少し早いけど、ゆっくり休んでくれ。ご冥福をお祈りします。

タツヤ

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