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お茶を買う

1980年代になって、烏龍茶が缶で売られるのを見かけるようになってからでしょうか?

1970年代生まれの自分にとっては、そもそもお茶は家で沸かしたお湯で飲むものだったのですが、気がつけばいつの間にやら自動販売機で買えてしまう代表格です。

ミネラルウォーターもそうですが、自動販売機で水!!というのも衝撃的でした。

でも、どれもこれも少し高級なものの印象がありましたよね。

今だと水道水もあるのにウォーターサーバーで水を飲む時代。。。


(自動販売機に戻りましょう。)

烏龍茶も自宅で手に入らなかったり

玉露入のお茶もなかなかどうして玉露って何?ってとこから高級感。

水道ひねったってエビアンの水は出てこないし。。。

ロイヤルミルクティーというハイカラな名前もつい最近知ったようなもんです。

自動販売機で手に入るのは少し高級だったりしました。


何かのそのままではなく

ほんの少し手に入りづらいものを高価格で

ほんの少し手間がかかるものを高価格で

そんな感じで自動販売機に入っていったような気がします。

(水道水120円というものは自販機に入っていても売れないからでしょう。。。)


ちょっと高級なものを

家では手に入らないものを

買いに外に出かけるような感覚。


今はそんな事なく

自動販売機で買うことが日常になっているように感じます。


なければ買う。

喉が乾けば買う。

熱中症に気をつけなきゃ→買う→飲む


便利です。


まあ、これを便利と思うのは、

そうではない過去を知っているからそう思うのであって

現在しか知らない人たちからすれば

一事が万事皆当たり前の日常なわけです。


でも、これは多かれ少なかれ

どの世代においても言われることで、

冷蔵庫がない時代の人が

冷蔵庫の便利さを実感しながら

冷蔵庫が日常である自分たちからすると

その便利さを実感することは少なかったりきっかけがなかったり。

とはいえ、停電になって日常が非日常になれば

そのありがたさが身にしみて感じられることを強制的に実感する場合もあります。


日常が非日常になり

非日常が日常になる


この繰り返しで人類は進歩してきました。


コロナで日常が非日常になり

おそらくこの非日常が日常になり


また一歩進歩するのであれば

あなたは何を伝えるでしょうか?


「冷蔵庫なんかなかったんだ。昔は。冷蔵庫のありがたみがわかる俺たちは偉いよな。今の子供達は冷蔵庫のありがたみがわかっていないからダメだ。」


なんてことは言わないに越したことはない。


ありがたみなど、自分が理解していればいい。


でも、ありがたみとあの頃は良かったは違います。


あの頃はよかったは、あの頃の良さをわかっているからこそ

あの頃の価値があるわけです。



今日は今日とて

良かった探し

良かった作り



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