美術大学と教育

どうして教育とアートについて考えようとしているかというと、いま教育がアートに接近しているというふうに感じたからだった。
ちまたでは、経済界のススメもあって探求型学習やアート思考などと言われ始めている。知識偏重の教育から、PISA型試験へ転換。自ら考える学びのスキームへシフトチェンジ。答えのない問いについて対話する。共同制作からグループワークの方法を学ぶ。大学受験から順に高校・中学受験もすべてこれまでの入試とは方向転換している。その流れを感じながら、自分自身の教育事業も変化してきて、振り返ってみると自らも教育畑からどんどんアートへアートへと向かっているような気がしていた。

だが、そもそも自分自身が教育に足を突っ込むきっかけは、美術において言語の問題を考え始めたからであった。いうならば、アートから教育について考え始めたのだった。

僕は都内の美術大学出身である。
というと、「それで、学習塾みたいなことしてるの?どうして?」と尋ねられることも多い。

一般の受験勉強と美術なんて全く関係ないようにみえる。
美術教師や画塾をやるのならともかく、家庭教師や学習塾として受験や国語算数などの勉強を教えるのとは関係がないのでは?と思うのかもしれない。

たしかに、自分も市井の教師を長くつづけようとは、はじめた当初思ってもなかった。(仕事なんてそんなものなのかもしれないが)


美大では、何を学ぶかというと、個人制作、集団制作とグループディスカッションが主な授業だ。ソフトウェアの使い方や技法のレッスンを除けば、基本的な教育の手法は一般大学と変わらない。1,2年に教養課程、3,4年にゼミを中心とした専門課程。制作物が論文の代わりとなる。

美大の学科は、大きく2つに分けることができる。
1つは油絵や日本画、彫塑を学ぶファインアート系。美術というと、こちらをまずイメージするかもしれない。
そしてもう1つがデザイン系(映像や建築も便宜上こちら側)である。

美術という枠組みで考えてみると、2000年代以降、日本のアートシーンは、アートワールドと社会実践(細かな分類があるが、ここではざっくり社会実践としておく)を主としたアートに2分される。

前者は村上隆氏をはじめとしたギャラリー・アートフェアなどにおける美術の売買。後者で有名なのは地域アートと呼ばれる産官学が密接につながったお祭り的なアートや、美学に言及する学術色の強いアートなどだ。この境界線はそれぞれのアーティストや団体の方針によってさまざまだし、越境するものなので作品ごとに議論すべきものだが、ざっくばらんに言うとそんな感じだ。

アートにおいて、いずれの道を選ぼうとも、アートの文脈への理解、作品のコンセプチュアルワークが重要となり、結局のところ現代においてアートに身を寄せるためには言語力が必要不可欠である。

また、美術に携わるのはアーティストばかりではない。キュレーターや批評家、美術商など、作品とアーティストの周りには美術にかかわる職種がたくさんあり、そういう人たちにも当たり前だが、鋭敏な感性だけでなく、それと同じくらい言語力が必要である。

もちろん、これはデザイン系にも当てはまる。デザインは課題があって解決策(制作物)、すなわち問いと答えが必ずあるものだ。何を課題とし、何を解決策とするのか。クライアントの課題とそれに対する最適解を出す。デザインにおいて失敗は避けられるべきものなので、話し合いを繰り返し、顧客もクライアントも満足する制作物を生み出せるよう努める。それがデザインの仕事だ。このような共同制作のためには、コミュニケーション能力を含む言語をあやつる力は欠かせないのは言うまでもない。

つまり、美術やデザインについて学ぶとなると、感性を鍛えるだけではなく、それを発信し、受け取る言語力が必須となる。
他の人とまったく同じに感じることは(今のところ)不可能だが、対話によって、「どう感じたか」を他者と共有することができる。裏を返せば、他者とのやりとりのために言語を使わざるを得ないということだ(いつか超音波で共有できる日が来るかもしれないが)。

しかも、美大生に基礎的な学力がないと、大学卒業後、安月給で働くことになる。
それはどういうことか。
美術大学にいくと、教授の半数以上が広告の仕事をしている、あるいはしていた人間である。
誤弊を恐れずに言うと、日本の美術大学は広告代理店やメディア企業への職業訓練校が実態である。

ファイン系だろうが、デザイン系だろうが、大学卒業後、一般企業のクリエイティブ部への就職を志す。それがメインルートだ。美術館運営にかかわり、細々と生活しながらアートにかかわろうとする学生もいるが、少数派だろう。
美大は美術を学ぶ場所、というわけではない。

そういう就活道を諦めたキワモノが集っているかと思いきや、そうでもなく、早い子は高校ですでに就職するためのポートフォリオをつくり、メディア関係の制作会社、広告代理店とその下請け企業、デザイン制作会社に就職するため、大学ではそのスキルを身につける。
食っていくためには仕方がないということだ。

大学は、学生の労働の対価が大きくなるように感性的な技能訓練場を提供することを目的とする。学生は感性的な技能・コミュニケーション能力を高め、高収入の大手企業の制作局に勤務する。
だから美術大学生も一般大学と変わらず就活をおこなう。むしろ、「一般」ではないことへのコンプレックスからか、王道ルートの高収入職へつこうとする向きが強いようにみえる。ほんのごく一部の純粋主義的な学生のみが美術とは一体何かと考察するにすぎない。


では、「正規王道ルート」へ行けない場合、どうなるのか?
言語力など基礎学力も自覚的に向上することなく、ずば抜けた感性をもとに単独でデザイナーとして食ってくことも、細々と美術を探求する資金力もない、そんな場合どうすればいいか。
それ以外の学生は薄給の労働環境を強いられることになる。
それは、言語(と会計)に長けていないことを雇用主が見透かしているからだ。
絵を描いてもいい代わりに、長時間労働と安い賃金で働くことを承諾せざるを得ない状況をつくる。これは雇用主にも問題があるが、受け入れる方にも問題がある。基礎学力さえ身につけておけば、もしかしたら、劣悪な労働環境を免れることもできたかもしれない。

つまり、アートを学ぼうとも、感性だけでなく知性を鍛えるべきである。特に、言語力と数理能力は欠かせない。

ちなみに、美大で優秀な学生は、私立中高一貫校か地方の進学校出身者が多い。これはつまり親の慧眼ゆえか、幼少期に感性だけでなく知性も高まるような教育を受けていたといえる。

中学受験で小学生の間に学習習慣を身につけていたか、あるいは高校受験の時点で上位校に進学することに成功し、そして、その結果、余計に中高時代に受験教育に時間を奪われないがために感性が死なずに済んだと考えられる。すなわち基礎学力を幼少期に鍛え、なおかつ10代半ばからは余計な受験教育に足を突っ込まなかったということだ。

そう考えると、

美術を教育するためには、美大以前の教育にさかのぼり、基礎学力を高める必要があるのではないか。

そんな難しいことではない。絵が好きだろうが、本を読むこと、文章を書くことそうしたことをないがしろにすることはできない。

そして、テクノロジーを駆使するために、可能なら数理能力も向上させる必要がある。だが、それを18歳以降でやっていては遅すぎる。初等教育からすでに身についていることが理想だ。
そのために幼少期からコンプレックスを持っていないことが何より重要である。そうすれば余計なコンプレックスを背負い込み、美術に関心はあれど、べんきょーは好きじゃないという状況に陥らなくて済む。
自分の作品をデジタル化する必要もあるし、外国語でやりとりする必要もある。さまざまな学問を忌避するようなマインドでは、現代において自らの表現方法と経済力の幅を狭めることになる。

感性的であり、
なおかつ、知性的であれ。

美大生とその後の進路を実際にみた結果、アーティストを生む教育とは一体何か?を考え始めたのだった。

こうして、しばらくして、「いまの小学生ってどんなふうに受験してるんだろう」と思い、塾のアルバイト(高時給に釣られたが、労働時間に換算すると時給800円以下でしかないことは後で気づく)へなんとなく応募した。
そこからさらに好奇心のまま動いてきたのは#1で述べたとおりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?