夏合宿「触覚」
合宿延長戦がまだ続くなか、僕の合宿は7日目で終わり、バックパックを背負いながら生徒と同じように帰路に立った。
自宅はこれまた奥多摩とは別の「地方」なので、電車を乗り継ぎ、自宅まで3時間近くかかる。
それが不快かというと、そうでもなく、さまざまなことを思い巡らすための余韻として必要である。
車内の隣席にバックパックを載せ、それにもたれかかりながら夕焼けに照らされる青梅の山をながめる。
延長戦も終えたことだし、合宿の総括を書こうと思っていたのだが、脳裏に浮かんだことがあったのでそれを先に投稿することにする。
御嶽から新宿駅に到着する。今は東京を離れ地方に住んでいるので、遅延中の湘南新宿ラインを避けて小田急に乗り換えた。
はす向かいに座っている人が居眠りしているのをみて、こちらも眠くなり、うとうとしながら、車内のエステ広告をじっと見ていると、成城学園あたりで、車内アナウンスが急に流れた。
「昨日の傷害事件による電車の遅延によって
ご乗車の皆さまにご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。」
スマホでSafariを開くと、Yahoo!ニュースもYouTubeのニュース動画もその事件の動画で埋め尽くされていた。悲惨な事件のため描写することを拒むが、今回の目的はその事件のことを語ることではない。
その事件をきっかけにスマホについて考え始めたことだ。
もし万が一事件に巻き込まれたら、そんなことを合宿の帰りの電車で考え始めてしまった。
翌日に模倣犯が現れ、殴られ倒れたときにどのようにして咄嗟にその様子を録画するかシュミレーションし始めた。
しかも意識が朦朧としている状態でやらなければならないかもしれない。
画面をみなくてもタップできるかどうか。目を瞑ってスマホを左手に持つ。
スマホ下部をスライドして、右下のカメラボタン、カメラを起動。
写真モード、いや動画モードのほうがいいだろう。
だが、そのとき写真モードになっているか動画モードになっているかどうやって確認する?
手で触っても、今何のモードか確認する「手立て」がない。
iPhoneの画面はツルツルしていて、手で判別することができない。
薄目を開けて撮影モードであるはずのスマホ画面を確認してみると、スクエアモードだった。
リボルバーをひとつずらしても写真になるだけで、動画にならない。
スクエア、写真、動画、スロー、タイムラプスと並んでいて、どのモードで開くかは、その前にどのモードを使っていたかに依る。しかもリボルバーを気を付けて触らないと撮影ボタンを押してしまう。
そういえば自宅のリモコンもそうだった。
夜、寝室のエアコンを調整しようと、暗闇の中でリモコン操作を試みた。すでに娘が寝ている時間だ。
だが、ボタンを触ってもどれも同じ形をしていて、温度を上げ下げするボタンが三角形がない。
昔、実家で使っていたリモコンなら、手で触るだけで大体温度調整のボタンの見当がついた。それは慣れてるからというだけではない。
いま使っているリモコンのボタンは手で触って判別しにくい。目で確認しなければ判断できないようになっていた。
これはつまり最近の工業製品が視覚を頼りにしてつくられているのではないか。消費者の需要からそうなっているのかもしれない。視覚的であることが求められ、いつのまにか触覚を頼りにする作り方は面倒だと後回しにされているかもしれない。
iPhoneは視覚的である製品の象徴だ。
10年以上前iPhoneを批判するうちの代表的なの意見は、画面にボタンがないということだった。
たしかに、携帯電話の場合、番号や文字は、縦三つ横3つのボタンのうちどこを押せばいいか。触るだけで割と判断できた。
だが、もはやスマホになって依頼、僕たちの生活の多くが、視覚により依存するようになった。目の情報を頼りにする。肌の情報は蔑ろにされる。
乗客は眠っているか、スマホを楽しんでる。僕も含めこんなにも無防備なのだから、いきなり誰かに襲われたらやり返すこともできないだろう。
と、ふとそんなことを帰りの電車で考えることになったのは、おそらく合宿で触覚が過敏になっていたからだ。
合宿から帰ると、教師である僕も感覚が鋭敏になっている。自然環境のなかで生活するというのはそういうことだ。
視覚だけは完結しない体験が僕らの感性を強くし、その延長上に知性の発達がある。感性が高まっていなければ、気づくものにも気づけない。
オンライン教育が普及するとしても、視覚的であるだけならば、きっとその教育は大きなものが欠落したまま普及することになるだろう。
オンライン学習の本を出したとはいえ、別にデジタル優位主義ではない。どこまでをオンラインでおこない、どこから触覚的な教育をおこなうのか、このバランス感覚が生徒だけではなく、教育する者にも求められている。
工業製品を大量生産するように新しい教育法が生産されることになるだろう。その煩雑さを避けるために、デジタル教育を忌避する人も出てくるはずだ。2分されることなく、両者を巧みに融合する必要がある。
自然環境で学ぶのなら、目だけでなく、身体が鋭敏になっている。僕自身もそうだ。感性が高まっているのは、仕事にも制作にも役に立つので、鋭敏になるのはいいのだが、これで都市にいきなり戻ってくると、正直体がもたないだろう。きっと生徒たちも合宿から帰ってきて、このギャップに疲れ、今頃少し気が抜けているころのはずだ。
大雨で日本中大変だ。一方で今日はエアコンをつけずとも暮らせるほど涼しいはずだ。これを機にまた今一度心身ともに強化したい。生徒たちももう一度いい状態に持っていけるように工夫してほしい。
僕は今日からリセットのために数日お休み。心身を強くして元の生活に戻ります。
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前田大介『本で書けない話』
教育・子育てのお悩み相談や多岐にわたる教育活動などのエッセイを毎週連載。 計算や漢字の非公開動画もこのマガジンでこっそり公開していきますー
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