十六羅漢像
元治元年 (1864年)、近隣の吹浦海禅寺の21代寛海和尚は、仏教の隆盛と衆生の救済を願って、あるいは落命した漁師の供養と海上安全を願って、造佛を発願し、地元の石工を集めて指揮し、5年の歳月をかけて、明治元年 (1868年)に22体の磨崖仏を完成させた。 磨崖仏の完成を見た後、明治4年 (1871年)7月に寛海和尚は自身が守り仏になるため、羅漢岩の傍らの海に身を投じ、71年の生涯を閉じた 全ての石像が海岸の岩場に存在し、満潮時や高潮の時には長年日本海の荒波に洗われる状態にあるため、磨耗、崩落が進んでいる。海禅寺25世住職の五十嵐擧一和尚は、「形あるものは、いつかは無くなります。雨風や波で風化していくのが自然なことでしょう」と語っている。