mad boys two mad

それで、どうやってそこから脱出した?

ああ、実はまだ脱出できてねえんだ。おまえに手伝ってもらおうかと思って。

脱出できてない? コオロギは驚いていた。心臓は激しく鼓動し、思考は非常に鋭さを極めていた。 脱出できていない? じゃあ、なんでお前と話しているんだ?

わけがわからないが、お前はいまどういう状況なんだ? コオロギはそいつに訊いた。

ああ、・・・ああ、まあな。・・・すうっと息を吸って、ゆっくりと吐き出した。ああ。まあ何といえばいいか、まあ、話すからしっかりと聞けよ。

コオロギはまだ落ち着きを取り戻していない心臓の跳ねたリズムを聞きながら、明晰になっている思考回路をフラットな状態にしようと試みた。なぜか窓の外の景色が妙に生き生きとしているように見えた。

F19のセッティングができていないうちに我々にはまだとうの昔に忘れられたような思い出がよみがえってくる。いつだってそうだが、いつだってそうだと思う人は少ない。我々が例えば家族のような存在を特別視するようにそれは自然と起こる。だがそれでも時は坦々と過ぎ去ってゆく。地球が回転を止めないように、それはただそういう構造になっていると言った方がもはや正確なのかもしれない。

脱出する方法を彼は伝えた。コオロギはその手法に驚きを隠せなかったが、それすらも彼の手腕によるものだった。友よ、すでにその中さ。と彼は言った。コオロギにはその意味を深く考えようとすればするほどわからなくなるという構造に気がついた。これ以上はもうどうしようもない。何かを考えるという行為そのものが無駄なのだと気付かされてしまったのだ。我々は無になる。感情が我々の伝達手段になる。つまりデフォルトで実装されている機能を呼び起こすのだ。ただそれだけのことなのだが、それは案外的を得ているのではないかとも想える。考えて意味のあることを想像すると、それは数多の可能性のうちの一つというものでしかない。あるいはそれですらないのかもしれない。そういったものに本当に意味はあるのか。可能性を一つでも多く見い出したところで。我々に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?