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可哀想だと言わないで

※刺激の強い思想についての言及があります

 理由のない暗いnoteがお前を襲う 補語です
 突然ですが、私は小学校のクラス標語のような、整形された綺麗事が本当に苦手です もはや憎悪に近いですね 自分自身所謂弱者に近いにも関わらず、ややもすれば弱者保護系の綺麗事にすら噛みつきたくなってしまう。助け合い歩み寄り実に結構、しかし現実は見てほしい。正しい差別はある、いじめは社会性動物に備わった当然の淘汰機能…ウワァ危なすぎる!
 しかし今までの記事や前述の通り、私は今までの環境において理不尽な事が何度も起こり、周囲からの助けも得づらかった、どちらかと言うと弱者側の人間であったのです。そんな弱者が救いの手に唾を吐くとはこれ如何に 今回はその心理を分解していきます。
 
 さて、あなたは誰かに全く理由に身に覚えのない事で理不尽な目に遭わされたらどうしますか?抗議する?やり返す?自分の身に起こった事を「理不尽」と認識できるのならばそうするでしょう しかし私はここでこう考えてしまいます
まあ、基本的に私は頭がおかしいから気づかないうちに何かをやってしまったのだろうし、よしんば理不尽だったとしても私は存在が気持ち悪いし仕方がないな…
 書いていて目眩がしてきました 不健康すぎる とにかく幼少期から自分の感覚にナシをつけられる事が多く、自分の感覚に全く信頼が置けないので自分の身に降りかかった事が理不尽かそうでないかを見分ける機能が死んでしまっています。
 ここまでは以前の記事「善意と依存」にも書いた「自分への不信感と、その裏返しによる他者の価値観への依存」で説明できるかと思いますが、ここで言っておきたいのはたとえ私が頭のどこかでそれを理不尽だと思っていたとしてもそれを封じ込めるようにそう考えてしまうだろう、という事です。
 それはなぜかというと、基本的に私は「自分に降りかかってきた事を理不尽だと認めたくない」からです 私を無視したあの子や口を開くたびに揶揄ってきたあの子、ここでは言えない事をしてきたあの子にだってそうした理由があるはずで、私の不幸は私に至らないところがあったから。そう思えば「原因不明な理不尽」は「改善が可能な原因により起きた事象」となり、「原因不明」よりかはまだ希望の持てるものになるのです。
 それは客観的には希望ではない、むしろ理不尽に抗う事を忘れさせ、どこまでも社会に負けていって取り返しのつかない事になってしまうリスクさえあるのですが、まだ幼く理不尽かそうでないかを判別するための価値観があやふやなうちから長期的に理不尽な人格否定や孤立した状態に晒され続けているとこのような思考になりがちです。抗うことはもう無駄なので耐えるための思考へシフトしてしまうのですね。どのような理不尽に苛まれていても生活は続くので、本当に壊れて動けなくなるまで、いや動けなくなってなお人の形を保つ努力をし続けないといけない。生活は、立ち止まって嘆くことを許さないのです。
 傷は認識しなければ傷ではない。そうして自分を捻じ曲げて騙し騙し生きている私を救わないでください。そうして救われてしまったら、私は自分がもはや人の形を保てない程に傷ついている事に気づいてしまう、本当に動けなくなってしまうから…

 そうして理不尽の原因を自分に求めて続けている内に自己否定感が生まれてくる。冒頭の善性への憎悪、「いじめは当然の淘汰圧」「存在すべき差別もある」と言いたくなる衝動 それは「(私を助けてくれなかった)善性など糞食らえ」、「いじめは当然の淘汰圧(だからあの時私は死ぬべきだった)」「存在すべき差別もある(私のような気持ち悪い人間は差別されて当然)」という自己否定感の裏返しなのです。
 私のやるべきことは突沸のようにこの手の感情が湧いたとき、それが自己否定感の裏返しであり、少なくとも他人に向けるべきものではないし、その自己否定感自体も私の人格に染みついた何かではなく症状に近いものである、つまり誰の事も責めなくていいということを強く意識し、感情の手綱を握ることでしょう。

 死んで然るべき人間など居ません。その中に私もいるという事が、今はいまいち信じられませんが、ゆっくり改善していこうと思います…

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