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愚か32

 「自分が自分の人生の主人公である」というのはかろうじてわかる 言い回しに何とも言い難い気持ちにはなるが、要するに「自分軸でいたほうがいい」という事だと思う 気を抜くと「人間は社会性動物なのだから社会から求められる役目を果たさずに社会のリソースを貪る事は許されない 他人のために生きて死ね」と自分に思ってしまうが、おそらくそういった態度でいるとまともな人間からは距離を置かれ、後に残るのは悪意があるにしろないにしろ、他人を利用できるだけしてやろうという魂胆の心掛けの悪い人間のみ そして残念ながらそういった人間に最後まで付き合えるほど私は強い人間ではないこともわかってきた(自分の子供など余程特別な存在、または最後まで付き合う責任が生じている相手であるならば別かもしれないが、わからない) なので最近は比較的「自分が自分の人生の主人公である」という言葉に嫌悪感を感じなくなってきた 未だに「もっと冷静に言って欲しい」とは思うが

 ただ、「何かの主人公になりたい」「自分が物語の主人公になれたら」というのはわからない 自分が何かの主人公(世界は上位存在による創作物である的な話ではなく、何かの集まりでのリーダーなどの「主役」および「特別な存在」)だったら、絶えず誰かの視線を注がれ続けていたらと思うとぞっとする 悪い意味で、であれば私は常に誰かの視線に晒されてきた 仔細な動きを論われて逃げ場はどこにもなかった あのような思いはもう嫌だ
 それに、何かの中でトップになるということは必ず誰かに恨まれるということでもある 一応私にも何度かそういう事がないわけでもなかったのだが、一瞬の達成感の先にはただ恐怖のみがある だからと言って負ければ否定感でぐちゃぐちゃになるのでもうそもそも競いたくない 疲れた
 そもそも、「何かの主役になりたい」というのは「自分が何かの主役であることを他者に認められたい」という他人軸の思考であり、それをあまりに露骨に表に出していると結局は足元を掬われるだけなのではないかとも思う わからないが

最近は、過不足なく物を認識していきたいと思っている できる事、出来ない事を過不足なく認識していないと逆にヘイトを買う気がしてきた 良くも悪くも、謙っていれば相手の気を良くできた思春期はもう過ぎたのだなあと思う
 学校空間を「人間という生物システムの縮図」や「淘汰構造の縮図」だと言う方もいるが、私はむしろその逆の、実際の社会構造とは真逆の構造をした異空間であると思う まあ確かに宿題などで計画性のない人間は炙り出されるとは思うが、こと人間性に関しては、学校空間の持つ淘汰システムはむしろかなり特殊な物であると思う 誰もあの空間のルール上で「うまく生きていく」必要などないのだと思う まあそう思えるのも私の運が良かったからかもしれませんが…

ありがたい事にお声がけをいただき、あと数日後にはボーマスに出展します 会う方、不慣れな点が多いとは思いますがよろしくお願い致します


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