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自己実現を望まないモブな自分でいる勇気。

ついに出会ってしまった。
幼い頃から願ってきた理解者に。
ブレブレな私の中に存在する絶対軸。

誰よりも私を知る者。
自身を偽ることを赦さない敵でもある。
容赦なく断罪し、
執拗に追い詰め、
攻め立てる。

良かれと思って選んでも、
不快なら自分を偽っているサイン。
それは、決して妥協しない。
赦さないし、同情もしない。

ただ、自分自身に忠実な存在。
あるがままに生きるための指針。

それが私の中に存在するなら、
もう迷うことはない。

…と言いたいところなのですが、
自身に忠実であることは、
危険なことかもしれない。


自分を偽らない選択が、
社会から逸脱していたら?
誰かを傷つけるものだとしたら?

これまでは、常識の枠の中に収まることで、
危険を回避してきた。
自分がなにを望んでいるかわからなかったから、留まるしかなかった。

けれど、自分を知ってしまえば、
境界線を飛び越える際の後押しとなる。
安全地帯から出ることができてしまう。
模範解答以外の選択も可能ということ。

なるべくなら、
自分を偽らずに生きて行きたい。

なんでもあけすけに言う失礼な奴とか、
バカ正直にとかではない。
自分自身を騙さないように。

極力、素直に。
いい自分になろうとせずに。
こうあるべき。
こんな自分だったらいい。
こんな人に憧れる。

演じることを止める。
自己実現を望まないモブな自分でいる勇気。
素敵な自分という鎧を纏わなくても、
安心していられる状態。

人の顔色伺ってばかりの人生は、もう嫌だ。
迎合するのは、嫌なんだ。

私を知る者がいれば、
そのための手助けをしてくれる。

理解者を得たことで、選択肢は広がった。
常識の範囲外まで選べるようになった。

自身に忠実に生きるのか。
常識に従い身を守るのか。

今後は選択の度に、
問われることになるのだろう。

誘惑に負けることもあるかもしれない。
安全地帯の外で、どのくらい責任を取れるのかもわからない。

そもそも不快感は、
自分を偽った時だけとは限らない。
身体由来の感覚的なもの。
思考由来のブロック的なもの。
まだまだ、思い込みも強いしね。

とにかく、
私を閉じ込めていた檻は、開いている。
そして、私の中には、私を知る者がいる。

もう少しで手が届きそうなのだけれど…
自分を押し込めた階層の底の底。
爪の先だけ晴れている闇の底から、
光が漏れている気がするんだよね。

闇の向こうには、
死があるものだと思っていた。
けれど、多分、愛に溢れている。

自己嫌悪、自己否定、存在否定のその先は、
愛で満たされている。無限の死と共に。

私自身に忠実に、素直に生きること。
そして、死んでゆくこと。

人生そのものが、
命そのものが、
愛なのかもしれない。

 fumori 

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