私は、常に現実と対話している。
私にとって生きるということは、
現実との関係を築くこと。
靴下を履くとする。
どの靴下を選ぶか?
ウォーキングなら、厚手の足袋ソックス。
今の季節は暑いから、
素足にリゲッタのサンダルかな?
仕事なら、ココピタ。
場合によっては、ストッキング。
選んだら、履き方。
立ったままか、ベッドに座るか、床か。
急いでいたら、雑になる。
爪で足を引っ掻いたりしがち。
ストッキングは、慌てていても、丁寧にする。
伝線したら、コストがかさむから。
靴下を履くことに、意識を向けたことはなかったのは、それだけ雑に急いでいたから。
無意識で済ませてよいことだと決めていた。
けれど、無意識で済ませていい行為なんて、
私の人生にはない。本来は。
ただの呼吸でさえ、空気の匂いや気温を感じさせる。喉の痛み、お腹の重さ、軽さも。
感覚が、感情を呼び覚ます。
それを、感じるために私は生きている。
そのための命なのに、
日常は簡単にそのことを忘れさせる。
日常は、感情の敵だ。
すぐに私を無意識に呑み込もうとする。
なので、毎日、毎朝、思い出させる。
自分自身の意識に。
無意識の日常に、巻き込まれないように。
私は、感じるために生きている。
現実は、そのために存在する。
常に変化し、感情を促す存在。
私×現実=世界
いつだって、私と現実は関係し合っている。
私は、何かしら感じているし、
私を動かした現実は、変化し続ける。
なら、私の感情も、変化し続けているはず。
その変化に気づかなくなるのが、日常。
日常を合理的にやり過ごすための無意識。
生きることに飽きたら、
自分の感情に目を向けたり、
現実の変化を探してみたらいいのかも。
いつだって、私は変わっている。
退屈だと感じているのは、
無意識に支配されているからかもしれない。
生きている実感がないのも、
意識するほどの現実ではないから。
無意識の日常で、事足りる平和な毎日だから。
幸せな毎日だから。
けれど、
その幸せさえ、無意識に沈んでしまう。
意識的に生きる。
感情を感じる。
現実に目を向ける。
無意識が優位になったら、幸せな日常を感じることができなくなってしまう。
無意識が感じるのは、退屈や、無意味さ。
人生の歓びと対極にある感情。
幸せなのに、辛いと思ってしまうのは、
無意識に生きているからかもしれない。
意識して、感じて、変化して、生きる。
そんな当たり前の日常を、
無意識に支配されず、
どれだけ意識を保っていられるか?
なにが私にとっての幸せなのか、まだわからないけれど、幸せを感じられるかどうかは、意識的に生きているかどうかなのかもしれない。
意識的に生きることは、きっと、不幸も感じてしまうのだろう。
だから、無意識に生きてきたのかもしれない。
私は、自分が感情的になることを恐れている。
自分自身を恐れている。
そんな自分に対する恐怖を、
今日より少しでも軽減してゆくために、
明日の私はなにをしたらよいのだろう。
なにを捨てたらよいのだろう。
fumori 2021.7.10
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