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所詮は現実。

心は傷つかない。傷つくのはプライド。

何度か聞いたはずの言葉が、やたら刺さった。

感情が暴走するのは、自我が傷つくから。
その自我は、価値観から生み出される。

なら、奴らが好む価値観を手放せば、嵐みたいな情念に巻き込まれずに、自我の支配から抜け出すことかできるはず。

そんな期待から、当然のものとして受け入れてきた洗脳もどきの価値観を捨てまくった。

与えられた価値観を手放せば、
自ずと自分の価値観だけが残るはず。

けれど、手放すその過程で自分という概念も作り出されたものだった気がして、価値観そのものが崩壊した。
あくまでも、精神世界の話。

価値観のない世界に於いて、
生きることは感じることだった。

命は、今にある。
感情の源泉は、その命の中にある。

今、感じていること。
それが、生きていること。

私たちは、感じるために生きている。
ネガティブな感情も、源泉は愛。
なので、
今感じる全ては、愛なのです。たぶん。

その愛を感じるために、現実が存在する。

現実があるから、仕方なく生きてきたけれど、感じるために、反応するために無常の現実が存在するとも言えなくはない。

価値観のない世界は、真逆の認識が同時に存在する。エッシャーの階段の絵みたいに、上下も正解もない世界。

そんな視点でいると、所詮は現実と思えてくる。
嫌な感情も現実も、薄まるというか、低刺激になる気がする。一瞬だけだけど。

借金を背負える人とか、会社が潰れても再興できる人って、そういう感覚なんだろうな。

心がズタズタに引き裂かれても、
ボロボロになったと感じても、
心は傷つかないことを知っている。

傷つくのは、プライド。

愛であるはずの感情をネガティブに感じてしまうのは、自我が揺らいだサイン。
自我を生み出している価値観崩壊の危機。

自我にとって居心地のいい価値観を壊すんじゃないという警告。
だから、嫌な気分を味あわせて、それ以上、踏み込まないようにさせる。

プライドが傷つく仕組みの一つ。

なので、ネガティブに感じた時は、むしろ、踏み込むべき時なのかもしれない。

心が傷ついたと感じたのなら、自我が死守する無意味な価値観を手放すチャンス。

心は傷つかないし、どんな感情も愛だから。

あ。命の危険とか、嫌な予感とかは、
別モノです。たぶん。

長いこと間違えていた。

手放すのは価値観だったのに、
ネガティブな感情をなんとかしようとしていた。

過去に捉われてしまうのは、
心が傷ついたと勘違いしたから。
傷ついたせいで嫌な感情になっていると思い込んでいれば、安泰だから。

嫌だと感じたのは、自我。プライド。価値観。
過去のせいじゃない。
価値観が崩壊したら、存在を証明できないから。
ただの概念だとバレてしまうから。
存在できなくなるから。

捨てていいのは、そっち。

感情は、愛。
感情は、サイン。

羅針盤みたいに方向を示しているだけ。
従わなくてもいい。
目的が変われば、別のルートに入る。
いつだって、今の最善を示す。

ルートを見失うのは、
価値観が磁場を狂わせるから。
本来、進むべきではない方向を指すことになる。

狂った羅針盤で、人生を歩むことになる。

価値観が、自我が、プライドが崩れ去らない限り、羅針盤は直らない。

だから、心が傷ついたと感じたら、
価値観を疑ってみる。

必要な価値観なら、
なんとも思わないはずだもの。

心が傷ついたと感じた時は、
価値観を手放すタイミング。

プライドが傷ついた時は、
磁場が狂ってるサイン。

これ以上、進んではいけないという愛の導き。

ワガママとか、努力不足とか、
そんな話じゃないんだわ。

そっちじゃないってだけ。
それ以上進みたいなら、
ステージ上げなさいっていう試練かな?

諦めれば、これまで通り安全圏で生きられる。
冒険したいなら、価値観を壊せってことか。

価値観を壊せば、新しい世界なら出会える。
ニューワールドに行きたいなら、捨てる。

問われているってことかな?
愛は、導くのではなく、問うものなのかもね。

選択するのは、私。
それが、不足を補うためであっても、
欲であっても、魔がさしたことでも、
選ぶのは、私。

正解はないんだね。本当に。
どんな選択も、自由なんだ。
その結果は、私自身が負うんだ。

国家の価値観。社会の価値観。
職場の価値観。学校の価値観。家の価値観。

植えつけられた価値観は、
そこで生きるためのルールであって、
一生守り続けなきゃならないものではない。

価値観を守ったところで、環境が変われば通用しない。時代かな?

必要な価値観って、時代に合うものだけでいいのかもしれない。
法律も常識さえ変わってゆく世の中で、守り続けなければならない価値観があればあるほど、不自由になってゆく。

不自由を覚悟で貫きたい価値観がある人は、それはそれで素敵だけれど、私は自由でいたいかも。

芯がなくても、フラフラしてても、誰のものかもわからない過去の価値観に縛られて、不自由に生きてゆくのは、嫌だな。

どこにいても自分でいたいと思っていたけれど、
自分がないなら、こだわる必要もない。

時代とともに節操なく変わってゆきたい。

踊らされてもいいや。
リズム感なくても、盆踊りでも、
できることを表現してみる。

踊ってる人を馬鹿にして、
見ているだけなんてつまんないよ。

踊ってこうぜ。

踊れなくても、スポットの当たるステージには立ってみよう。

所詮、現実なんだからさ。

 fumori 







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