世界は淋しさに溢れている、と思って、安心する。
淋しさと生きてゆく。
現実が辛いのは、心が苦しいから。
苦しみは、自分を大切にして欲しいから。
誰かに大切にして欲しいと願うのは、
淋しさから逃れたいとき。
淋しくないように生きようとすると、
苦しむようにできている。
どちらかを選ぶしかないみたい。
どちらも幸せとは、程遠い。
…そうなのだろうか?
淋しい気持ちは、
相手も淋しいだろうと
思いやれるようになる。
寄り添えるようになる。
苦しみだって、同じ。
例え、自分可愛さから苦しんでいるとしても、
誰かのその苦悩を非難できるだろうか?
たぶん、苦しみの根源は、淋しさだから。
あったはずの幸福が失われたからではない。
独りだからでも、誰かと比べるからでもない。
私たちは、なにもなくても、
淋しさを抱えて生まれている。
…私だけかな?
淋しくない人もいるだろうけれど、
言葉があるということは、
必要とする人が多いんじゃないかな。
きっと、この世界は、淋しさに溢れている。
それ以上の苦しみも。
本当かどうかはわからないけれど、
そう思うと、少し安心する。
私だけではないのだと。
淋しさを知らない私は、強かったな。
エゴが力を貸してくれたから。
その分、現実は辛かったけれど、
なんとか生きていられたのだから、
今ある命は、エゴのおかげでもあるのか。
エゴがいなかったら、
生きていられなかったのかな?
淋しくて人が死ぬとは限らないけれど…
そう思い込ませるのも、エゴの作戦かな。
エゴのデメリットでもあり、
最大のメリットは、
私に生きていて欲しい気持ちは、
この世の誰よりも強いこと。
エゴのいない私は、淋しくで、弱っちい。
どうしたって、淋しいんだもの。
何をしたって埋められないって知ったら、
苦しむことに耐えられなくなった。
意地を張ろうとすると、息が続かない。
こんな人生、もう嫌だ。
変わりたいと思ったのに、
変わらない自分を選ぶしかなかった。
よりよくなろうとして、苦しくなった。
なら、どうしょうもない自分で
生きていくしかない。
不本意でも、それしかない。
私にとって変わることは、
変わろうとすることを諦めることだった。
自分以外になろうとするのをやめて、
自分のショボさを認める。
ありのままの自分は、
実際に会ったら、ガッカリする憧れの人だった。
そりゃ、気力も萎えるさ。
苦しみから逃れたいのなら、
逃れられないと知ること。
苦しみは、淋しさを克服しようとして
エゴとの共存が生み出すもの。
なので、淋しい気持ちを感じる。
淋しさは、思いやる気持ちに変わる。
愛のひとつ。
苦しみは、エゴを焼き尽くす業火。
自分の弱さを罰して、良心を守る。
それも、愛。
感情の全ては、愛から生まれるもの。
きっと、どんなネガティブな感情も、
根源は愛なのだろう。
そう信じてみよう。
怒りも、悲しみも、恨みも、妬みも、
拗ねた愛の表現なのかもしれない。
だとしたら、私の愛は無尽蔵だ。
ネガティブな愛が枯れることはないだろうし。
これが、お金だったらいいのにな。
なんて本音はともかく、
愛にたどり着いたところで、どうしようか?
淋しいと分かっていれば、
誰かに大切にされたいと
思わないでいられるだろうか。
自分を大切にするだけで、
相手を尊重できるようになるだろうか。
ああでもない、こうでもないと、
揚げ足を取らずにいられるだろうか。
聞かれてもいないことを、
喋ったりせずにいられるだろうか。
自分を知ってほしいと、
好きになってもらいたいと、
誰かに期待せずに生きられるだろうか。
どうしようもない自分のまま、
誰かと向き合うことができるだろうか。
自分を守ろうとせず、
和を生み出すことができるだろうか?
…
結局、雑談のできる人になりたいってこと?
って、エゴじゃん!!
fumori
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