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利己的で傲慢な欠点を相殺していたのは、長所ではなく、短所かも。

過去を悔やみ、未来に怯えてきた。

そんな自分を変えたくて、
過去に感謝し、未来に希望を抱こうとした。
そんな自分になろうとした。
本気で変わりたいと願った。

けれど、できなかった。

考え方を変えられたことはあったし、
その都度、自己受容はしてきたつもり。
ただ、ポジティブな心構えは苦手なままだ。

私は、ポジティブな人間になりたかったんだな。

自分がやろうと思ったことを、躊躇らずに挑戦し、失敗しては自分に腹を立てていた。
負けず嫌いで、他人の迷惑とか、できない言い訳よりも、自分のアイデアに夢中になっていた。

そんな過去の自分に憧れていた。
そんな子供の頃の自分に、執着していた。

嫌なことばかりの世界は、変わらないのに。
大人になった今よりも、制限だらけの世界だったはずなのに、自分の価値観がまるで通用しない世界に真っ向から歯向かって。

尽きるほど命を使って、
潤沢に日々を生きていた。

挫折ばかりの世界が、なぜ今より遥かに自由で、ポジティブだったのだろう。

アホみたいに、単純な子供だったから?

自分の感情、価値観が全てだった。
自分にそぐわないものを、心から変だと思った。
私の世界には要らないと、迷いなく排除した。

あれは、なんだったのだろう?

なぜあれほど
自分の感性を信頼できたのだろう?

世界には、私しかいなかった。
私が世界の中心だという感覚。

それを、私は傲慢だと決めつけた。
利己的であることを封じ、謙虚であろうとした。
そうしたら、人に使われることが嫌になった。

謙虚なのに、他人にいいように使われるのは、不当だと感じた。
親切とか、優しさとか、そういう気持ちが足りないんじゃないの?
そう自分を戒めてみたものの、どうしても納得がいかない。

なぜなら、私は、優しい人ではなかったから。
そもそもが傲慢にできている。

どんなに控え目に振る舞ったって、傲慢さはプンプン匂い立っていたはずで、謙虚なふりをした偽善者が、なぜ今まで生きてこられたかといえば、ただ愚かだったから、だ。

残念ながら、私は大器ではなかった。
大器になりたいと願うお調子者の小人だ。

だから、煽てられたら、気前よくなんでもやってしまうし、単純で、他人の意図を汲み取れないからこそ、親切にできるのだ。誰に対しても。

私は、優しくない。けれど、親切だった。

悪意があっても、快く使われるし、押し付けるつもりはなくても、よいと思ったことを言ったりやったりしてしまう。

空気が読めないお節介なお調子者。
だからこそ、誰に対しても親切でいられる。

親切が私の長所であるなら、
短所は単純でお節介なところ。

そして、その個性の源は、利己的な傲慢さ。

私が人生に迷っていたのは、
傲慢さを封じてきたからかもしれない。

利己的であることが、私の強さの源で、生きる動機を生み出していたのかもしれない。

私以外を、なんの根拠もなく否定できる感覚。
自分の感性に対する圧倒的な信頼。

私でないものを、躊躇うことなく切り捨てる基準が、かつての私にはあった。

それを、封じてきた。

だから、間違えた。

優しくあろうとして、傲慢さを封じ、
器を広げようと、小人の愚かさを戒めた。

そっちじゃない。逆だった。

捨てなければならなかったのは、
優しい人になりたいという夢。
大器でありたいという欲。

身の丈に合わないというか、
本質と真逆な性質を獲得しようとしてきたから、本質の強みが消失し、弱みだけで生きて行かなければならなくなった。

自分の中でも圧倒的に強い個性を悪としたことで、才能とは真逆の弱みだけで、最弱の装備で、生きてきたようなもの。
そりゃ、死ぬよ。

私が封じてきた才能は、傲慢さだ。
自己中心的で、自分が得をすることを何よりも喜べる能力。

ただし、その傲慢さは、罪悪感を生む。
だから、封じていたのかな?
利己的に、自分のために。かもしれない。

私は、自分さえ良ければいい人間だけれど、自分だけが得をして、誰かが犠牲になることに対して、罪悪感を抱いてしまう。
そこが、定まらない原因かな?

自分を責めないと決めた。
けれど、利己的に生きたら、罪悪感に苛まれる。
結果、自分を責めることになる。

さて、どうする?
先に損をしておく、とか?

利己的に生きたら、とうしても罪悪感を抱えることになる。
けれど、もう自分を責めないと決めたので、これまでのように無意識に罪悪感を抱えるわけにはいかない。

自分を責めることで、帳尻を合わせるわけにはいかなくなってしまった。

利己的であることの強みを生かし、
怠惰の願う通りに楽に生きるためには、
私の特技である主観的な親切をしまくるしかないのかもしれない。嫌だけど…

要らぬお節介でも、ビジネスの成功理論みたいなものと思えばよくないかな?
100の親切が失敗したとしても、101番目の親切が相手に響いたなら、それで十分。

誰かの心を動かすこと。
私にとって、それ以上の価値はない。

人は、今を感じるために生きている。
そういうことにしているから。今のところ。


利己的なまま生きる代償として、
できる親切をしておく。

…どうだろう?

あんまり楽しくなさそうな生き方だし、周囲の人々にとっては、迷惑以外の何者でもないんじゃないのかな?

傲慢で利己的な短所は、
人に使われることで相殺される。
お節介な親切でも代用可能。

…かどうかはわからないけれど、
短所には、そこをカバーするだけの別の能力が含まれているのかもしれない。

短所(-)×短所(-)=長所(+)

長所にまでは至れていないけれど、
利己的に親切にして行く中で、
新しい才能が育っていったりするのかな。

それまでは、お節介を振りまくことになり、周囲にとっては迷惑なだけの存在か…

申し訳ない。

なるほど。
利己的に生きることを許したら、周囲への配慮って、その程度なものなのかもしれない。

他者の承認より、自己の罪悪感を軽減する方が重要だから。利己的って、楽だな。

そんな生き方をしても、いいのかな?

ちょっと不安だけれど、
楽に自然に、利己的に生きられたらいい。

なるべく迷惑をかけずに。

 fumori 



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