言葉は、相手を想うためにあるのかもしれない。
自分の考えを伝えるためのツール。
それが、言葉だと思っていた。
けれど、伝えるだけなら、こんなにも語彙って必要ないんじゃなかろうか。
理解して欲しいだけなら、喜怒哀楽で事足りる。言葉でなくても、表情とジェスチャーでなんとか凌げるだろう。海外へ行った時みたいに。
言いたいことは、言葉でなくても伝わる。
なら、言葉は何のためのものなのだろう。
空気を読まなければならないのは、なぜ?
私は、いつも浮いている。
どうにか赦されて存在しているものの、泡のように彷徨って、浮かんでは消えてゆく。
どうにも周囲に馴染むことができない。
けれど、それがなんなのだろう?
なぜ、浮いてしまうのか?
問題は、理由に見えて、そこじゃない。
馴染もうと努力したり、馴染めないのが私だと開き直ってみたり、理解してもらえなくても仕方がないと思いつつ、わかって欲しいと願ったり…
とにかく、いつも悩んできた。
私がここにいることを、知ってほしい。
ここで生きていていいと認めて欲しい。
………
認める必要なんか、ないよね?
認めてもらう必要も。
そもそも、そんな権利持ってる人はいない。
私の存在を認めないと言われたら、どうするの?
所詮、腹を立てたり、悲しむくらいだ。
あの人は失礼だ、と。
認められて当然だと思ってるからね。
心の奥底では。
愛されて当然と思っていたように、私はこの世界に存在していていいに決まってるから。
誰かに認めて欲しいわけじゃない。
承認欲求を満たして欲しいだけ。
気分良くさせてもらいたいだけなんだよね。
愛されて当然の悪徳令嬢は、存在を認められることなんか、確かめるまでもないのでした。
「周囲と馴染めない」同じくらいの頻度で使う言葉が「いい人」だ。
褒めてるつもりでいるけどさ、
いい人も、ジャッジですよ。
本当に、何様なんだろう。
相手は、ただ自分自身を生きているだけで、自分の良さも悪さもわかってるでしょうに、傲慢で勘違いしたご令嬢に、あなたいい人ね、と認定されたからといって、なんなん?
相手からすれば、むしろ、
「そうでしょうね。貴方と比べたら、大概の人はいい人になるでしょうねぇ」
と、言いたいところを我慢させられてる状態だろうに。ストレスフルもいいところ。
それにしても、自分が一番可愛い私が、相手の事をいい人と承認するのは、なぜだろう?
綺麗事の世界観を現実に押し付けたかったから。
その心は、
私にとっていい人であって欲しかった
…ですよね?
優しくして欲しいとか、
親切にして欲しいとか、
楽しませて欲しいとか、
メリットのある人であってくれという要望。
相手を都合のいい人に仕立てるための甘言。
上からだから、逆効果だっただろうけれど。
それらを無意識にやってるのだから、恐ろしいし、恥ずかしい限りだけれど、愛されて当然という信念を現実化するために、承認欲求を満たすことだけを考えていると、手段も洗練されてくるのだろう。
自分を騙すために、耳障りのいい表現が次々と浮かんでくるのだから。
本人は無意識なので、プライドを捨てたつもりなんかないけれど、側から見たら、なんか必死な人、だったかも。
相手をいい人にするために、私もいい人でいなければならなかったから。
いいも悪いもない。
人はそれぞれ自分を生きている。
好かれたいのは、自分を好きじゃないから。
なら、誰かに好かれるためじゃなく、自分を好きになる努力をしたらよかったのに。
自分と対話が出来ないから、誰かに自分を知って欲しくて堪らない。認めて欲しくて、赦して欲しくて、愛して欲しくて、気が狂いそうだった。
私にとって言葉は、
自分の語るためのものだった。
けれど、これまでのように執拗に誰かに認めてもらう必要がなくなってみると、人と話す必要も無くなってしまった。
話題に事欠くのはこれまで通りとして、自分の話までしなくなってみると、結構な寡黙っぷりだ。
でも、不思議と以前より会話が成り立っている気がする。話している内容は、どうでもいいことなのに、心が通っている時みたいに、気楽な気持ちでいられる。
自分の要望だけでなく、相手の気持ちを考える余裕があるからかな?
なら言葉は、相手を知るためのものなのだろう。
自分の知らない事を、相手から教わるために。
なにを感じているのか、自分との違いを知るために、表現が生まれ、似たような熟語がいくつも作られたのではないだろうか。
言葉は、自分を語るためではなく、
相手を想うためにあるのかもしれない。
言葉が溢れているのは、思考のためではなく、
相手に寄り添うため。
そのために、無数の言葉が生み出された。
相手の想いを推し量るツール。
なら、私と話をしてきた人々は、言葉を使って、私を知ろうとしてくれていたのかな。
考えていることを、感情を共有しようと。
なのに、私は、自分のことを認められることに必死で、相手の優しさに感謝したり、好奇心を満たそうとはしなかった。
相手が望んでいたものを、与えようとしなかった。
相手が知りたいのは、情報ではなく、
私だったかもしれないのに。
私が、楽しい気持ちでいるならよし。
辛いなら手伝えることごあるかもしれない。
悲しいなら、話を聞くことぐらいはできる。
困っていたら、助けるつもりだし、
いい気分なら一緒に味わいたい。
そういうことだったのかな?
アピールなんかしなくても、認められようと頑張らなくても、私のことを興味を持って知ろうとしてくれていたのかもしれない。
言葉を使って、私のことを想ってくれていた。
私を認めてくれていた。
欲しいものは、与えられていたんだね。
fumori
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