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本当の自分に怯えずにいられる世界。

完璧主義を緩和するために、
良心に赦しを乞う。

そんな結論に至ったわけですが、それもまた、完璧主義だったんだわ。

世界への不信感が、私の完璧主義の原因。
それは、自分への不信感でもあり、自分を裏切った過去の罪悪感によるもの。
二度と良心の呵責を味合わずに済むように、と価値観の軸を、正しさ優先に置き換えた。

そして、
理想の自分が、自分自身に成り代わった。

よくあろうとして、高い目標を掲げるのは悪いことではないけれど、そこをキープし続けなければならないという義務を課したことで、人生が幸福でなくなった。

自分ではない人生を歩み始むと決め、そこから逸脱することができなくなった。

そこまで無理がきいたのは、どれほど人生が辛くても、良心に苛まれる痛みほどではないと知っていたからだろう。

よりよくあろうとしたことが、仇となった。
…みたいな書き方をしているけれど、もちろん、回避する方法はあった。

良心の呵責に苛まれた時に、認めればよかっただけ。私が悪かった、と。
勇気を出して、謝ることだって出来ただろう。
それだけで、自分を偽らずに生きられたのに。

生きるに従ってネガティブになっていったのは、自分を偽らなければならない軸が増えていったからかもしれない。
子供の頃も色々あったけれど、今より幸福感を感じていたから。

感情の座標軸が、ポジティブ100%のポジションにあるから、日常の殆どがネガティブになると思ったけれど、やはり真ん中なのかも。

人生の中で、一番幸せだったことと、一番不幸だったことの真ん中が、今の日常ではポジティブ100%ということなのかも。

人生には、とびきりの幸せを得られる瞬間が、何度かある。
けれど、なにもない日常に得られる幸せの中で、最も手軽なのは、なんの努力もしていない自分でいることを赦すこと、ではないだろうか?

ありのままの自分を愛するのではなく、本当の自分を恐れていることを赦してみる、とか?

何者でもない今の自分でいることに、なんの罪悪感もなく、何かしなければという焦りもなく、好きは好き、嫌いは嫌いなままでいられるとしたら?

そんな自分で生きられるなら、それでよくない?
恐れている自分さえ赦すことができたら、既に愛された状態なわけで、わざわざ愛しにくい自分を愛する必要もないし、優しかったり、幸せだったり、ポジティブな自分でなくてもいい。

ネガティブでもいいから、
赦された自分でいたい。

完璧主義のままでいい。
ルーズでいい。
仕事できなくていい。
コミニュケーションが下手でもいい。
バカにされてもいい。
嫌われてもいい。
腹を立ててもいい。
怒鳴り返したっていい。
傲慢でいい。わがままでいい。 

なんなら、良心に背いたっていいじゃない?

多分、それだ。

良心に赦しを乞う。
赦してもらう代わりに、
二度としないと確約する。

それが嫌だったから、座標を捻じ曲げてでも、良心の呵責から逃げ続けた。

確約してしまったら、損ばかりの人生になるから。良心に従っていたって、幸せにはなれない。世の中は不公平で、理不尽で、正直者がバカを見る世界だ。

私は、そんな愚かな人生は嫌だった。
得をしたいという欲が優った。

なんかね、そこが、完璧主義だったんじゃないかな、と。

二度としないと確約したからには、
二度としてはいけない。

私の認識だと、そうなってしまうのだけれど、相手は私の良心だよ?

赦しを乞うなら、二度とするな。
二度目は赦さない。

それって、閻魔様とか、正義の女神とか、やんごとなき方々の視点じゃない?

私は、神なのかい?

だって、人間だもの。もっと大らかな良心にすることだって、赦されるのではなかろうか?

同じ失敗を繰り返しながら、悪びれずにまた赦しを乞いに来ても、赦してくれる。
そんな優しい良心がいいと思うのだけれど、そういう甘さは、悪魔にそそのかされているのかな?

さて、どうしよう?
神さまレベルの厳しい良心に従うか?

いや、無理だろう。
なら、悪魔の囁きに、少し乗ってみようか?

私たち人間は、そのハザマに生きるものだもの。
法の範囲内なら、どっちの価値観も選べるんだよね。本当は。

正しさを選んでる自分が、気持ちがいいってだけなんだろうな。私の場合。

正しくても、赦されない世界は、不安だ。
誰も信じられない。もちろん、自分も。
失敗したら、おしまいだから。

私は、赦されると信じられる世界が欲しい。

良心は、私を裁き、従わせるためではなく、間違いを認め、赦し合うためにあって欲しい。
認める勇気。謝る勇気。赦す勇気。

なら、良心は、勇気なのかな?

自分を表現するする勇気は、
自分の価値観を否定されるという覚悟を生む。
自分の表現が誰かの価値観を傷つけるかもしれない覚悟。

自分が悪かったと認める勇気。
折れる必要のない中傷なのかを見極める力。

その拠り所が、良心?

あれ?
もしかして、それが、愛?

私の全てを赦しながら、
犯した罪を許さないもの。

想像力が世界を創るのなら、
私は、そんな世界が欲しい。

存在する全てを赦すことはできなくても、世界を赦せない自分を赦すことはできる。
それが、ピースフルな軸になる。

赦される世界。
何者でもない自分に価値がある
と、当たり前に思える世界。

愛される世界は、嫌われる世界。
なら、愛されようと、嫌われようと、
あんまり意味がないのかな?

それより、赦されていたい。
命の価値を知っていて欲しい。

自分のことを好きであろうとなかろうと、今、ここにいる「大したことない自分」に価値を見出せる世界がいい。

過ちを認める勇気を出して、
赦される世界に招かれよう。

私が悪かったんだ。
誰かのせいにしたことも、
世の中への不満も、全部、私が悪かった。

中には私が悪くなかったことだってあったかもしれないけれど、そんなもの、聞き流せばよかったんだよ。
それができずに、怒り狂ったり、恨んだりしたのは、こっちは良心に責められないよう、ちゃんと正しい軸にいたのに、人のせいにするから。

誤解されたことより、正しさに留まる努力をバカにされたと感じたからかもしれない。

「違うよ」って、落ち着いて言えば、相手だって素直に認めることができたかもしれない。
感情的に相手を責めるから、内容ではなく、感情で反発されたのかもしれない。

あーあ。
良心の呵責から逃げていたら、
人生を棒に振ってしまった。

認めよう。謝ろう。
そして、良心に赦してもらおう。

犯した罪は許されないとしても、
私であること、生きること、
愛されることを赦してもらおう。

現実的な罪と、命の価値は別だ。
赦される世界へ行こう。

私自身に怯えずに済む世界へ行こう。

そして、
仕事ができず、コミニュケーションが下手で、会話が途切れることが恐怖すぎて、人とのランチは砂を噛んでいるとしか思えなくて、頭の回転が遅くて、ムカっとしても、何に対して腹が立ったのかわからずに、即座に言い返せず、後になって悔しさがこみ上げて来たり、バカにされることが許せないくせに、見栄を張ってクールなフリをしてしまったり…

書いているだけで落ち込んでくる。
そんなショボい自分でも、いいのかな?

 fumori 


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