今日を弔う。
今日の私は、今日死ぬのだ。
そして、明日の朝、また目覚める。
そんな1日を、死ぬまで繰り返す。
結果、それが人生になる。
疑いもしなかった。
続いてゆくものと思い込んでいた。
生まれてから死ぬまで撮影されるフィルム。
私が主人公の映画のようなもの。
けれど、人生は動画ではなかった。
時々印象的なシーンが切り取られたアルバム。
インスタみたいに、一つ一つはバラバラなのに、
どことなくその人らしさが漂っている。
その人の意図が浮き彫りにされる。
自分をどう見せるか?
どう見られたいか?
過去は、自分に都合の良い心象。
それは確かに現実だったけれど、
編集されたドキュメント。
ただの記憶なら、妄想と大して変わらない。
自分の記憶が薄れたら、
あったことすらなくなってしまうほど儚い。
そんな過去に苛まれている。
馬鹿らしくなってきた。
過去を悔いて、心を痛めたところで、
書き換えることも、やり直すこともできない。
昨日は、もはや手の届かない次元。
前世とか、異世界とか、
そのくらいかけ離れた幻想。
そして、命が確約されている。
死ななかった。その安心感。
辛い記憶だとしても、死の恐怖はない。
だから、後ろを向いていたいのだろう。
意識しないと前を向けないのは、
未来は不確定だから。
好奇心や可能性は、失敗や、屈辱や、
味わいたくない現実とセットだ。
更に、もれなく死までついてくる。
いずれは、死に出くわしてしまう。
そこへ向かってゆけというのだから、
前を向いて生きるのは過酷だ。
だからこそ、今日の自分を弔う。
今日を生きた自分と別れ、
翌朝、新しい1日を生きる。
継続するから、人生はしんどい。
1日しか生きられないなら、
現実と向き合えるかもしれない。
逃げ出したくなるような現実を前にして、
とどまれるようになれるかもしれない。
気負わず、未来を信頼して、
今日を生きることができたら、
最高かも。
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