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ハッピーな高揚感ではなく、開放感を幸せということにしてみる。

とある説によると、本能とは、
今ある苦しみから逃れたいだけで、
後のことはどうでもいいもの、らしい。

のどが渇いた→どうする?
A→水を飲む→苦しみから逃れる
B→水を飲まない→苦しい→逃げたい
→水を飲む→苦しみから逃れる

(本能の欲求)→(自由)
→(行為)→(欲求の解消)

つまるところ、
本能が満たされないとなんでもする
ってのが、人間の本質らしい。

あれほど願ってきた自由さえ、
本能には瞬殺される。
「苦しくてもやる」なんて理性が
太刀打ちでるわけがないのである。

殺伐としているけれど、きっとそうなのだろう。私には、わからないけれど。幸いなことに。

これまでの人生では、人から奪う前に、
本能を満たすことができたから。

そう、それが、幸い。
なんだ。幸福って、その程度なのか。

苦しんで、本能を満たして、
苦しみから解放される。

全然、ハッピー感がないのだけれど、
幸せなんて、そんなものでいいのかも。

一方では、幸せがそんなものであって
欲しくない、と願う私がいるのだけれど。

なぜ、水を飲んだくらいでは、
幸せを感じないのだろう?

ご飯を食べる幸せでは、
満足できないのだろう?

美味しいご飯でなければ、
ガッカリしてしまうのは、なぜだろう?

お腹を満たしたいなら、
まず飯でも構わないはずでしょう?

美味しいご飯を食べたい。
お腹を満たすだけでは、満足できない。

それを求めているのは、本能ではないから。
自我の欲求。

いかにも本能を満たすためとでもいうように、
本能に乗っかっている。

美味しいご飯を食べることができている。
それが、当たり前の日常になっている。
単に食べるだけでは満足できなくなっている。

幸せのハードルを上げるのが、自我の習性。

自我の欲求を、本能だと勘違いしているから、
本当なら満足できるチャンスを、
不幸に感じるように設定されている。

自我を満たそうとすると、
本能の幸福が失われてしまう。

自我を満たそうとすると、不幸が増す。

それなのに、無意識に自我の欲求を
満たそうとしてしまう。今だって。

自我が満たされた時の至福感が
忘れられないでいる。

あれこそが「幸せ」
そうインプットされている。
一定のクオリティ以上でないと、
満足できなくなっている。
完全なるエゴ中毒。

幸せになりたいのなら、
ハードルは低い方がいい。
小さな幸福をたくさん感じた方が、
幸せな今の回数が多くなる。
幸せな一日に近づくことができる。

本能を満たして、苦しみから解放されて、満足や幸せを感じられたら、一日で何度、幸福感を感じられる? 何分間、感じられる?

水を飲むだけで、トイレに行くだけで幸せになれるのに、その幸福を捨てて、一日に三度しかない食事に美味しさを求めているのは、なぜ?

回数より、幸福度の高さを求めているから。
今よりも上の幸福を求めてしまうから。
まだ見ぬ幸福かもしれない。可能性への期待?

そんな幸福を得るために、クオリティの高い生活に憧れ、もっとお金を稼ぎたいと思っているのに、稼げない自分。なんて惨めな人生だ。
こんな社会は間違ってる!!

…みたいな八つ当たりを積み重ねて、
今日も私は生きている。
なんか、生きててすみません。

なぜ、こうも簡単に自我を本能だと
勘違いしてしまうのか?

たぶん、「苦労から逃げるフォーマット」を
利用してるんだと思うんだよね。

自我が生まれる前から本能は機能しているわけで、「苦しみ=逃げる」「満たせない=苦しみ」「欲求=満たす」が、「正しい選択」になっている。

なので、満たされなければ「苦しい」という認識を創り出すだけで、「苦しみ」「逃げる」「満たす」を選択させられてしまう。

もう自我の言いなりになるしかないんじゃないかな?

認識そのものである自我は、言葉の魔術師だ。
思考を使いこなし、一瞬で、苦しみを創り出し、求める選択へ誘導できるだろう。

そんな自我の魔法を見破るためには、
どうしたらいい?

言葉を意識する。

お腹が空いたことと、
美味しいご飯は同じではない。

のどが渇いたことと、
美味しいお水は同じではない。

事実と願望。本能と自我。

言葉によって騙されているとしても、言葉を使わないと自覚できない。なので、言語化してみる。

たぶん、あるがままを見れるなら、
その必要のなくなると思うのだけれど。

「今ある幸せに感謝する」

それが、大切なことはわかるけど、
今の暮らしに感謝もしているけれど、
なんと言うか、自分の言葉にならなかった。

食うに困っていないのに、幸せを感じられない。

それが、贅沢であることも、
傲慢であることもわかるのに、
食べられるだけでは、幸せとは思えなかった。

そもそも、幸せの基準が違っていたから。

ご飯を食べられること。それが、幸せ。
当たり前に本能を満たすことができる日常。
それが、幸せ。

水を飲んで、トイレに行って、お風呂に入って、屋根のある家に住んで、暑くても寒くてもエアコンが使えて、蚊がいたら蚊取り線香を使って、刺されたらムヒを塗って、雨が降ったら傘をさして…

当たり前の日常は、不快を快適にしてくれている。それが、幸せ。

正直、どこから本能なのか、自我なのかよくわからないけれど、「ハッピー感」ではなく、「苦しみからの解放」「不快からの解放」を「幸せ」ってことにするだけで、日常に幸福があふれ出す。

今ある幸せに感謝するためには、
幸福という概念の再設定が必要だった。

ハッピーな高揚感ではなく、
開放感を幸せにする。

それだけで、幸多き一日になる。
同じ不幸じゃないけど、幸せでもない一日が。

日常に幸せを感じられないと、
不幸を数えてしまいがちになる。

自分より不幸な人を見ては、安心する。
無意識に探していたのかもしれない。
おまけに、憐みなんて感情が浮かんでくるから、気持ちが悪い。
同情は、気持ち悪い。

今ある幸せをカウントできるようになったら、
それを得られない人のことを想った。

私が当たり前に飲んでいる水を、
自力では飲めない人がいる。

お金がなくて、ご飯を食べられない人もいる。
お金があっても食事を受け付けない人もいる。

私が当たり前に満たしている本能を、
満たすことができない人がいる。

そういう命が存在している。

相手の存在を、人だと思うと、
自分との比較が始まる。
憐れんだり、うらやましがったりするのは、
同じ人間なのに、という自我。

存在を命という状態で見ることができれば、その相手は自分と同等の命になる。
できないことに手を貸すことは当たり前になるし、できることをやってしまうのは、失礼に当たる。

欲しかったのは、この視点かな。同情したがる傾向が、とにかく気持ち悪かったから。

もしかしたら、命ですらなく、風景みたいなものなのかもしれない。ただ存在している状態。

さすがにそんな視点で現実を見ることは難しいけれど、もしもそうなれたら、認識のなくなった世界の始まりだ。
あるがままにある世界。
ラブリーですね。きっと。
現実社会から見たら、狂気かな。

さて、本能を満たして、
苦しみから解放されて、
それを幸せだと思おう。

日常に幸せをカウントできるようになったら、
できることをしよう。

出しゃばらず、押し付けず、
求められる手助けをしてみよう。

言葉ではない世界を、いつか見られるように。

言葉ではなく、視界いっぱいの愛を、
この目で見ることができるように。

 fumori 







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