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私の幸福を誰よりも知っているのは、私の不幸を望む者かもしれない。

自分の願いを叶えられる自分でいたい。
叶えようとする自分、かな。

適当な思いつきだとバカにしたり、
今はそれどころじゃないからと無視したり、
面倒だからと言いくるめたりせずに、
叶えてあげようというスタンスでいてくれる。

そんな味方がいたなら、困難な現実であっても、意識的に対話してゆけそうな気がする。

生きることが面倒だったのは、変化し続ける現実を、昨日までの自分でも生きられたから。

経験値があり過ぎたというか、
経験値よりも楽なフィールドに居座っていた。

あらゆるイベントがこれまでの応用でこなせる世界なら、無意識でも対応できる。

レベル99なのに、スタート地点の村でスライムを倒していたら、そりゃ、飽きるよね。

現実と対話するというのは、
全ての瞬間を意識的に生きるということ。

だからと言って、
波乱万丈な人生は、丁重に御免こうむります。

私のようなビビりは、すぐに戻れる安全地帯を確保しつつ、未開拓のフィールドを少しづつ広げてゆくに限る。それも、冒険。

占いによると、今年はチャレンジの年。
キッカケには、丁度いい。
逃げ道を確保しつつ、好奇心の赴くまま、未知の世界を冒険しよう。

…と、思って、サクッと旅立てるなら、とっくに現状を打破しているわけですよ。

私には、敵がいる。

諦めるに十分な理由をこれでもかと考え、正当化し、それでも私が言いなりにならないと、過去の失敗を持ち出し、あげつらい、嘲笑い、気力を砕く。
手段を選ばず、私の好奇心を摘み取ってゆく。

私の中に、不幸を望む自分がいる。

罪悪感が根源らしいのだけれど、もはやなんの罪かも思い出せない。ただ、私の不幸を願い、私が傷つくことを喜びとする呪いみたいな存在。

幸せになりたいと願っても、
赦してほしいと願っても、
全力で私の邪魔をしてきた。

けれど、
そいつが使えるツールは、言葉だけだった。
いちいち反応して、傷ついていたから、強敵だと思い込んでいたけれど、聞き流してみれば、うるさいだけの相手だった。

あんな酷いことを言う方が間違っている。

そんな無意識のジャッジを利用して、対立を煽られてきたというわけだ。

誰がなにを思おうと、
口に出さない限りは自由。

頭の中、心の中の制限を取っ払ってみたら、
世界が反転した。

孤独が辛いのは、自由に生きる強さを得るためだったのかもしれない。

劣等感に苛まれたのは、自分では気づくことができない才能を伸ばすためだったのかもしれない。

無価値観は、他者の価値観で埋めようとしても埋まることのないもの。
自分の価値観を教えてくれる指針だったのかもしれない。

こうしてみると、ネガティブな感情は、
自分がどんな人間かを明確に示している。

だとしたら、
不幸を願う私にも、
示したい何かがあるのかもしれない。

なぜ、不幸を願うのか?

そもそも、これまでの選択は、不幸だったのか?

この人生が諦めの結果だとして、今の私はどの程度の不幸なのだろう?

今、生きているなら、間違っていたとは言えないのでは?

思考が現状維持を望むのは、生命維持を最優先にしているから。

感情だって、同じだ。
本能も、思考も、感情も、命は惜しい。

なのに、今の私は、その貴重な命を使いたいと思っている。
長く生きるだけではなく、命を使って、なにかを満たして、生み出してゆきたい。
そう思い始めている。

傷ついたことは、嘘ではないけれど、思考のせいにして命を惜しんでいた。
そもそも、感情は幻だから。

感情で行動をセーブしてきたのは、無意識に知っていたのかもしれない。
その時点で心が傷ついたとしても、感情は幻で、その源には愛しかないと知る時がきたら、傷ではなくなる、と。

だから、現実的な失敗によって、命を損なうリスクを避けた。
生きていることが、最善の選択だから。

不幸を願う自分は、私を傷つけることによって、命を守っていた。

私を傷つけることができるということは、
私の弱点を知り尽くしているということ。

私を不幸にできるということは、
私の幸せを阻むことができるということ。

つまり、私にとっての幸せを知っている?

まだ私が気づいていない幸せを、知っているのかもしれない。誰よりも。私以上に。

ネガティブな感情の使い道は、
自分ではわからない自分を知るための秤。

孤独は、自由を、
劣等感は、才能を、
無価値観は、大切にしたい価値観を知っている。

そして、
私の不幸を願い続ける罪悪感は、
私の幸せを知っている。

だとしたら、
罪悪感は癒すだけのものではない。
味方にすることだってできるかもしれない。

私の不幸を楽しむのではなく、
幸せに喜びを感じるようにならないかな?

…さすがに、ムリか。
罪にとっての喜びは、罰だもの。

なら、逆に、私が不幸を楽しめばいいのか?

いや。どうやったって、楽しくはないよね。
罪悪感を喜びとするとか、
不幸を楽しむとか、
マゾ的な性質がないと難しいな。

でも、不幸を避けようとして、不幸になっていたわけだし、不幸になろうとしたら、幸せになれるかも?

…じゃない。
避けていたのは、不幸ではなく、恐怖や不安。
その先に幸せの可能性があったから、諦めることで不幸を感じていた。

つまり、幸せになるためだけなら、恐怖や不安を乗り越えようは思わなかったということ。
私は、怖がりだから。 

幸せより、不幸ではないことを望んでいた。

けれど、
安全に生きていたら、心が枯れてしまった。

あれだけ重苦しかった命が、吹けば飛ぶような軽さになって、やっと命と同じくらい大切なものがあったことを思い出した。

大切な命を使って、生きること。
現実と対話すること。
無意識で反応しない現実を選ぶこと。

私なりの価値観で生きてゆくための判断基準。

探していたのは、それだった。
私の幸福は、心から納得できる基準を手に入れることで得られるもの。
安心感みたいなもの。

私なりの価値観の中で、居心地よくいたい。
それだけ。

ずっと自由を求めてきたくせに、
私を幸せにするものは、
自由を制限するものばかりだ。

幸せにも境界が必要だから?

無限なものを求めて夢を見るくせに、
有限であることに落ち着いてしまう。

誇大妄想と小心者。
そのバランスがとれた状態が、私にとっての幸福だとしたら、なんて不安定なのだろう。

もしかして、
幸せを求めると危ないタイプなのかな?

一瞬の均衡を幸福とみなすようなクレイジーな価値観なんて、ギャンブルみたいなものだもの。

そんな幸せを追い求めるより、思いつきの小さな願いを叶えようとしてみることの方がいいな。

自分の願いを叶えることで、高い自己肯定感をキープできたら、幸不幸なんてどっちでもよくなりそうだから。

幸福感より、肯定感を優先してみようかな。

 fumori 




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