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自我は命の投資先。

自分を大切にして欲しい、愛して欲しい。
そう願い続けているのが、エゴ。

大切にして欲しいのは、
大切にされなかったからではない。
愛されなかったからでもない。

たぶん、淋しかったから。

私は、淋しさを持って生まれてきたと思う。
きっと、必要な感情なのだろう。

誰かの淋しさに寄り添うために。
一人では生きられないと知るために。
淋しさと対極の感情をMAXに感じるために。

理由は定かではないけれど、
淋しさと共に生まれてきた気がする。

だから、
私を大切にするというエゴの手を取った。
大切にされる価値があると認めてくれたから。

お陰で、淋しくはなくなったけれど、
人生に苦しむことになった。

自分を大切にしようとすると、
現実にはそぐわない人間になってゆくから。

狂気の人生だった。
今もだけど。


エゴは、
大切な自分を、守ろうとする。
愛されるために、よく見せようとする。

いい気持ちにさせようと、優越感を生み出す。
劣等感を感じると、何かを責め立て、
自分は悪くないと言い張る。

メリットがあれば、良心を裏ぎり、
デメリットしかないなら、良心を見捨てる。

そして、生き延びるために、命を差し出す。
業火の中で、命は燃え続ける。

それが、苦しみ。
良心。良識。理。神性。仏性。
命と共にある何か。
自分を大切にする対価は、
失えば人ではなくなる類のもの。

そうならないために、
命を削っているのかもしれない。

自我は、
命を身代わりにしないと、生きられない。

そして、意外と命は、削られることを
気にしていないのかもしれない。

人が生きる理由は、人それぞれ。
きっと理由なんかないのだろうけれど、
仮に私が人間である理由があるとすれば、
多彩な感情を生み出すことにしている。

エゴと共存することによって、
生産される感情は、増幅され、多彩になる。

感情の生産量からしたら、
エゴ以上のファンドはない。
もれなく苦しい現実がついてくる。
ドラマチックな人生は約束される。

さて、これからどうしよう?

命の代わりに、
業火に焼かれなければならないのは、私だ。
共存しているエゴごと。

そうすれば、自我を投資して、
命として生きることもできる。

さて、どっち?

これまで通りなら、
命を投資して、自我を生きる。
苦しいけれど、ドラマチックな人生。

自我を投資して、命として生きるなら、
もれなくついてくるのは、淋しさ。

私のエゴを生み出した感情に、
耐えられるだろうか?

淋しさに寄り添える人間になれただろうか?

淋しくない瞬間を淋しさのおかげと
思えるようになれただろうか?

問われているのは、成熟度。

淋しさという未知の感情に
怯えることしかできなかったあの頃の自分から、
どれだけ成長できただろう?

どちらの生き方も選ぶことができる。
恐怖に囚われれば、
エゴは炎から飛び出すだろう。

あっさりと私に成り代わり、
命を差し出すだろう。

きっと、どちらも人間らしい生き方なのだ。

淋しいから、嬉しくて、
苦しいから、楽しい。

両方味わいたいのが、人間だもの?

 fumori 

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