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世界にとって、私は異物という感覚について。

寝起きからネガティブだ。
今日の現実も、ここから先の未来も望めない。
どこにも行き場のない"今"しかない。

未来に望むことは、沢山あるけれど、
今とは違う未来を想い描けない。
それが、一つ目の理由。

そして、未来を変えたいと願いながらも、
今の私は現状維持を選択している。
これが、二つ目。


私が未来に望んでいることは、
健康で食うに困らないとか、
命と世間体を維持するための最低限の生活。

なので、未来も変わらない。
今の延長線上にある未来しか見えないのも当然。

お金に余裕のある生活をしたいとか、
やりがいのある仕事をしたいとか、
好きなことで稼げたらいい、とかは、
もちろん思うけれど、承認欲求が軽くなったら、
人生をよりよくしたいというモチベーションが
なくなってしまった。

人から認めてももらうためなら頑張れるけれど、
自分自身のためにしたいことなんてなかった…
という衝撃。

つい理想武装して繕いたくなるけれど、
これがリアルな今の私です。

承認されること=やりたいこと
だったので、好奇心って、なんだっけ?
そんなレベルのポンコツです。

とは言え、目標なんて、今日やることくらいでもいいので、立てられないこともない。
未来がどうなるかなんてわからないのだから、昨日と違うことを、一つ考えればいいだけだ。

問題は、やろうとしないこと。

失敗したくないと思う。
失敗する自分を見下して、ダメな奴だとジャッジする自分がいる。一体、いつまで奴の監視下で生きていかなければならないのだろう。

失敗は、人生からしてみれば、成功なんだよ?

それは、わかっている。
頭では理解できるし、経験から体感もしてきた。
それでも、まだ怯んでいる。なぜ?

失敗した自分を、認められないのだと思う。
いつだって、成功して、上にいたい。
そんな下品な意識があるらしい。
だから、失敗すると見下すのか。

愛されたいという渇望。

愛されていなかったわけではない。
愛されることを望めない?
愛されることを、受け入れられない?
愛されなくても、仕方がない?

なぜなら、
私は全てを愛することができないから。

どんな自分でも、味方でいる。
それはもう決めた。

失敗しても、自分を批判しないし、
望まない現実も、最善だと受け入れる。
少しはできるようになったと思う。

なら同じように、失敗を恐れて、成長も望まず、
なにもしない今の私の味方でいることは?

失敗が怖いことも、
怖くて勇気が出せないことも、
失敗したら自分を見下したくなる気持ちも、
成功したら調子に乗る自分も、
全部の自分を赦して、認めることはできない?

ま、嫌だよね。
そんな自分を嫌悪するのは、健全な気さえする。

なぜ、赦す必要があるのだろう?

なぜ、尊敬できない自分が存在するのだろう?

全ての命の存在を認めているのに、
なぜ、自分の中には、自慢したい自分と、
晒したくない自分がいるの?

ネガティブな自分がのびのびと過ごせる世界を望んでいるくせに、赦せるネガティブしか開放しないつもりだろうか?

ポジティブと同列にできるネガティブな自分と、拘束したまま消去したい自分。

ネガティブな自分にも、ランクがある。
ジャッジして、選別している。

愛されたいと願っているのは、
そんな自分だろうか?

世界にとって、自分は異物だ。
だから、愛されなくても仕方がない。
だとしても、だからこそ愛されたい。

そんな想いがある。ずっと。
世の中と私の当たり前だと思う感覚が、
ズレているというか、むしろ、真逆だったから。
開き直っていたせいか無自覚だったけれど、
なぜかいつも焦っていた。
いたたまれないくらいの焦燥感。

異物である自分の存在を見下していたのか、
異物だと見做す自分を嫌悪していたのか、
どっちが思考で感情なのかさえわからないほど混ざり合ってしまった情念。

その対立を引き起こしているのは、
比較しないではいられない自分。
比較しないと、自分が消えてしまうから?
自分が存在しないことが、怖かったのかな?
何もないから、愛することもできない?

愛するためには、存在と理由が必要だから?

それかな?
たぶん、そこが間違い。

愛するという意味がよくながらなかったのだけれど、ほぼ好きと同じ意味合いで使っていた。
だから、嫌いが対義語になる。

けれど、愛には、対立する概念はない。
好きはもちろん、嫌いをも含むもの。

愛は、存在すること。

ただ、ジャッジがないということは、存在を肯定しているわけではないので、存在しなくなることも、そのまま存在させている。

自分で言ってても、こんがらがってしまうのだけれど、一つの事象に必ず二つの概念が生じてしまうこの世界で、ジャッジせずに済む概念のことを愛と呼んでいるのかな、と。

だとしたら、私自身も愛ってことなるのかな?

価値観を比較することで成り立っている自分は存在しなくても、私は存在する。

意識なのか、感覚なのかはわからないけれど、死んでいない限り、存在している。

ジャッジのない意識は、
もれなく命に付随している。

ピースフルな居場所って、そこなのかな?
現実に居場所を求めていたけれど、
心がそこにいられたら、
居場所を感じられるようになるのかな?


嫌いとジャッジすることも、
嫌いなものが存在することも、
嫌いなものを認められないことも、
嫌いだったくせに好きになることや、
好きだったのに嫌いになること。

変化する価値観や、感情に作用されてしまう
自分がない自分が嫌いだった。

確固たる信念を持った自分でいたかった。
目標とする未来を手に入れられる自分。
自分を誇れる自分。
執着しているのは、そんな自分。

そんな自分でいたかったのに、なれなかった。
それが、今の自分。
できなかった自分を恥じながら、
夢に執着する自分を見下している。

いつだって私の心は内戦状態だ。
自分の中の価値観を皆殺しにして、途方に暮れていたというのに、今度は自分を二分して、戦いに明け暮れている。

公平を願うとことは、対立する二つの意見を生かさず殺さず、常に均衡を保っておくということ。
一方が勝ちそうになったら、力を削いだりして。

誰のための代理戦争なんだろう?

答えが見えず、打つ手すらなく、止むことのない争いにうんざりしていたけれど、もしかしたら、その答えが愛というものなのかもしれない。

今、存在する全て。
肯定も否定もせず、ただ存在する世界。
世界が存在している様子、状態かな?

争いは嫌だ。
環境は破壊したくない。
綺麗な地球に住みたい。

けれど、
エアコンは必須。
Wi-Fiも、スマホも、家電も、
電気のない生活なんて、考えたくない。
水洗トイレも、クイックルワイパーも、
コンビニも、スーパーも、車も、
便利なものは全て今のまま享受したい。

そんな欲望が、争いや環境を破壊しているのに、両立を望んでしまう。

矛盾する欲望と願望も、
存在するなら愛なのかな?

愛は世界そのものなのだろうか?


世界は私に変わることを強要しない。
ただ、今を刻む命を提供し続けるだけ。
そして、愛はもれなく命に付随している。

だとしたら、
愛は、私にとって都合のいい世界ではない。
ジャッジすることで切り捨ててきた自分や現実が存在することになるから。

ただ、ネガティブな私がのびのび過ごせるとしたら、そこだけだ。

愛は、どちらの選択も存在させる。

だったら、私を迷わせている根源は、
愛ってことにならないかな?

違うか。
選びたいのに、選んではいけないと思っている?もしくは、現実的ではない、と決めるのは、私自身だ。

愛は、なんでもあり。失敗を選ぶことができるのは、愛が存在する事を知っているから。

愛は、結果ではなく、状態。
心のベースが愛なら、ネガティブにジャッジされても、過敏に反応しなくて済む。
ジャッジする人を責めることもないし、
ジャッジされた自分を恥じることもない。

ただし、愛は選ぶことができない。
ジャッジがないから?
比較しないと選べないのかな?
選択権は、ジャッジと引き換えなのかも。
選ぶのは、ジャッジする私だけ。

ジャッジをする私と、なんでもありな愛。
現実を生きてゆくには、どっちも必要なんだね。

 fumori 




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