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欲が強まると、愛が目減りする。

あくまでも心意気の話をしよう。

私は、お金も地位も名誉も人気も欲しい。
あればあるだけいいと思っている
そんじょそこらの庶民である。

けれど、
現実や成功や結果は、
私の生きる意味ではない
なんて思ってもいる。

現実は、答え。
過去からのギフト。

価値観が認めなくても、不平を言っても、
裁こうとしても、揺るがないもの。
だって、答えだもん。

現実が変わらないなら、
解釈を変えるしかない。

今ある価値観やプライドを捨てて、
対局にあるもう一つの答えを
見出せというメッセージ。

そう思うようにした。
そうでも思わないと、
こんな理不尽な現実を生き抜けないもの。

答えは、必ず二つある。

もう一つの解釈からすると、
私の現実は、不要な価値観を
あぶり出す役目もあるらしい。

一度、手に入れた価値観は無自覚の領域。
自覚するための代償が、手痛い現実。

そんな苦痛だらけの人生の末、
やっと自分が悪かったことを認め、気づいた。
この辛い現実は、
私の内面が反映されたものだった。

現実的な苦労と、精神的な苦労が
ごっちゃになっていたけれど、
精神的な苦労がを除いたら、
そんなに苦労してないんだよね。実は。
ありがたいことに。

現実的にさほど苦労もしてないくせに、
不幸ぶってきたわけですよ。
本当に、何様でしょうか。

とは言え、
精神的な苦しみも、間違いなく苦しいし、
自分が作り出して、執着しているものだから、
逃れようとする程に追い込まれてしまう蟻地獄。

そんな現実は、執着しているその価値観を
手放せってサインだった。

そんな体験から学んだこと。
心を澱ませないようにすること。

ポジティブな気持ちを保てる人はそれに限る。
けれど、ネガティブ気質の私が
ポジティブ変換しようとすると、
よかれと思って、心を偽ってしまいがち。

むしろ、心が重くなってしまうので、ネガティブな本音もそのまんま聞き流すことにしている。
嫌な過去が蘇ってきても、スルー。
スルーしても、何度も蘇ってくる奴らは、感情に満足していないのだと思って、悔しんだり、腹を立てたり、寂しがったりしてみる。

自分を偽らない。
柄の悪い、道徳的でない本音に、ビビらない。
こうなって欲しいと願っても、
執着しない。

現実にも、価値観にも、固執しない。

あるがままの現実と、
あるがままの心を、
あるがままにさせておく。

あと、気持ちがいいことをする。
やりたいことをやるのもいい。
やりたくなくても、
やればスッキリすることは、やる。

そうして過ごしていると、
現実がさほど変わらなくても、
辛いとは思わなくなったり、
逆に、満たされているのでは?
と、錯覚しそうな時もある。

現実的な不幸は、
現実的に対処する以外にないけれど、
精神的な不幸によって、
現実が不幸になっているなら、
現実を変えようすると、余計に苦労する。
なので、先に、心を整える。

自分に嘘をついていないか?
他人の価値観を、
自分のものだと思い込んでいないか?
したくもないことを、
やって当然と思っていないか?
やらないことは、本当にわがままや甘えなのか?

渦中にいると見えなくなるので、立ち帰る。
そうならないように、
毎日、心の澱みを洗い流す。
自分ではないものを手放す。
自我の執着を手放す。

無理に明るく生きなくても、
心が曇らないようにケアできれば、
そのうち現実に反映されてゆくだろう。

呑気にそう信じて、心を洗おう。
手のつけられない現実を生きるのは、もう嫌だ。

日々、穢れは溜まってゆく。
だから、毎日、祓い清める。

ご飯を食べるとか、眠るとか、
本能を満たすことと同じぐらい
当たり前のことだったんだな。

神棚や仏壇に手を合わせるとか、
信心がなくてもやらされてきたけど、
そんな些細なただの習慣が、
幼い私を守っていたんだな。

意味を理解していなくても、
信仰心がなくても、形式によって
還元されるものはあるんだな。

自我に捉われた私を、
絶望から救ってくれたのは、
幼い頃の習慣とか、形式だった。

身についていたから、花開いた。
身を守る術は、与えられていた。

解除の仕方は、種として植えられている。
だから、その不幸がやって来た。

逆なんだな。本当に。

乗り越えられない試練は与えられない。
その言葉が嫌いだった。

いくらなんでも不公平が過ぎると感じた。
いくら理不尽な世の中でも、
不幸な人が不幸になりやすい世の中で、
試練と思って乗り越えろというのは、酷だ。

けれど、
試練がやってくるのは、
すでに解答を手にしているからだとしたら?

心の中に解決する方法が埋まっている。
その芽が出ると、試練になる。

私の中の不幸の種と同じ原理。
芽が出たら、摘み取る事しかできない。
試練が来たら、乗り越えるしかない。

不幸も試練も、先に種がある。
不幸は痛みと共に摘み取り、
試練は乗り越え、答えを得る。

答えは、才能みたいなものかもしれない。

苦しい現実が試練だったとしたら、
私はなにを得たのだろう?

あれだけ辛かったんだから、
才能に溢れていてもいいはずなのに…

まったく得られた気がしない。
むしろ、現実を失ってばかりだったし。

ま、いいや。
今が辛くないのなら、上等です。最高です。

こんなアホみたいに呑気でいられるなんてね。
少し前なら考えられなかった。

人の悩みや、想いや、やる事や、
なんだかんだを抱えすぎていた。
求められたことも、頼まれてもいないことも。

なにはさておき、自分。
自分と、今。

命なら、今に不満はない。
豊かだから、愛が溢れる。
愛が溢れると、欲が叶う。
現実が潤う。

引き寄せって、
この事なんじゃないかと思っている。

今が不満だと、欲が溢れる。
愛を使って、欲を叶える。
愛が目減りするから、
欲が叶っても、心は貧しいまま。

ベクトルが、逆なんだよね。

今→愛→欲→今に戻る循環は、豊かになる。

今→欲→愛→今に戻る循環は、貧しくなる。

スタートの心理状態がポイント。
満たされていれば、豊かになる。
不満なら、貧しくなる。

不満は、不幸だから。
不幸は、心が澱んでいるから。

なるほど。

現実が不幸だった訳ではなく、
闇落ちが原因だったから、
現実を頑張るほどに、
不幸になっていったのね、私は。

なら、心の健やかさを保てば、
いつのまにかリッチになるのでは?

そんな説を、ぜひ立証したいものだ。
もちろん、私の人生で。

…って、危ない。
すでにリッチな心理からスタートできなきゃ、
貧しくなるばかりじゃん。
ある程度の元金は、自力で稼がないとダメなのかも。

ま、とりあえず、今日を快適に生きようっと。

 fumori 


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