この世界は、感謝できるもので溢れている。

桜が咲いていた。
視界を占領された。

大木の枝垂れ桜は、
五分咲きにも関わらず、
周囲の空までピンクに見せた。

心が騒めく。
花の精霊がいるのかもしれない。

そんなファンシーな乙女心を呼び覚ましたのは、
たぶん、敬意に近いものだった。

独り占めしてはいられない。
感動に対する感謝を伝えたい。

誰かと共有することができないから、
持て余すほどの感動を捧げたい。

感謝の対象として、存在していて欲しい。
利己的だけれど、尊い感情だった。

桜は、毎年咲くし、キレイだし、感動もする。
けれど、感謝したいと思ったことはなかった。

神仏って、感謝の対象として
生み出されたのかもしれない。

改めて考えてみると、
この世界は感謝できるもので溢れている。

アスファルトは歩き易いし、
春の陽気は、朗らかだし、
見栄えの良くない電線のお陰で
快適な生活ができているし、
車もコンビニも便利だし、
なにより、私がこの世に生み出したもの
なんて一つもないのに、
文明を享受させてもらっている。

美しいものでなくても、
デザインや感性、趣味、好みに合わなくても、
用途には感謝できる。

流石に、毎日、アスファルトに感謝している
だけなら、人生に飽きてしまうけれど、世は無常。

今日出会った桜のように、唐突に現れては、
非日常による新たな感動を与えられる。

気づいていないだけで、
世界は感動のきっかけを与え続けている。

私が見ようとしていなかむただけなのだろう。

たぶん、命はそうして費やしてゆくもの。

今を感じ続ける。
そのために、変化する世界が存在する。
私自身も変化する。

けれど、私とは、ただの命に過ぎない。
自分ではなく、命。
今にある命だから、変化し続けられる。

心は、いつも揺らいでいる。

楽しいことだけでなく、
辛いことでも構わない。
心は、なにかを感じていれば満足だから。

満たされているからではなく、
感じ続けられることが、心の働き。

だから、世界は変化する。
そうなることを命が求めているから。


使命って、与えられるものだと思っていた。
何かを為すとか、役割を果たすとか。

けれど、私の場合は、どう命を使うか?
問われていたのは、そっちかも。

何もできないモブだしね。
何もやってこなかった、か。

私の命が求めているのは、感じること。
感じ続けること。

未来の不安でも、過去の後悔でもいいから、
楽しくなくてもいいから、感じていたい。

命からしたら、
感じられないことが、死なのかもしれない。

なら、今を感じていられればいい。
楽しまなくてもいい。
嫌だけど、不快だっていい。

ただ、選べるのなら、
感動と感謝が多い方がいい。

この世界への感謝は、
私自身への感謝にもなる。

自分に感動して、
感謝してる時、
自己肯定感MAXですよ。

小さな成功体験を積み重ねるより、
毎日与えられる変化の中から、
感動出来ることを探して、
その対象に感謝する。
その方が、手軽なのでは?

ネガティブになるのは、
現実を否認しているから。

どんなに嫌な現実も自分も、否定しない。
認めなくても、赦さなくてもいい。
愛さなくても、肯定しなくてもいい。
能動的でなくていい。
否定しないだけ。

それから、今に目を向ける。
変化してゆく日々の中に、感動を見出す。
見出した感動の対象に、感謝する。

こんな手軽な方法で、
自己肯定感が上がったら、ラッキーだな。

 fumori 


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