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やりたいことを探していたら、やることが山積みになっていた。

生きるのが面倒くさいだけだ。
私自身は、死にたくなんてない。

それでも、朝になると、
死にたいと思うのは、なぜなのだろう?

死にたいという私の願いは、
お金持ちになりたいという
夢や憧れと同じものなのかもしれない。

タラレバの架空の未来を想像して、
その自分を楽しんでいる。

今ではない自分になりきることで、
今にはない感情を味わえる。

辛い現実から逃げるため、
楽しかった過去の記憶を
再生しているようなもの?

あんまりないけど…
逃避ならもっと楽しい感情を喚起させて欲しい。

なぜ、「死にたい」なのだろうか?


人生に、価値を見出せない。

生きたくても生きられない人がいて、
死なれては困る人が、死んで欲しくない人が
死んでしまう世界。

こんな悲しい世界に、
望んで生まれて来る人なんているのだろうか?

誰もが、異世界を生きているのなら、
私の生きている世界が、
地獄なだけかもしれない。

なら、生き地獄でない世界へ移行したい。

…なんてもがいて来たけれど、
もう諦めようかな。

逃げ場はない。
この地獄でしか生きられない。
かと言って、死ぬ勇気もない。
生きるのは面倒だけれど、
誰にも迷惑をかけない死に方を
考える方が面倒に感じる今日この頃。

幸いにして老い先も、絶望する程、長くはない。

誰も私に期待しないのなら、
惰性で生きても、いいんじゃない?

なにかを為さなくても、
誰のためにならなくても、
やることなすこと迷惑をかけてしまっても、
それがなんなのだろう。

どうせ世界は、こんなに悲しいのに…

人生は苦だ。
という仏教的な考え方が、嫌いだった。

全く夢がないんだもの。
人は幸せになるために生きている。
そう信じることにした。

そして、幸福を追い求めた挙句、
等身大の冴えない自分に気づいて、
未来が閉ざされてしまった。

思い描いていた可能性を
諦めざるを得なくなった。

ずっと、今ではない自分を生きてきた。
頭の中の世界を、現実に押し付けて。

そりゃ、現実が嫌なことばかりになるさ。

だから、益々、現実逃避をする。
気が付けば、生身の自分では、
現実を生きられなくなっていた。

死にたかったのは、そんな自分だろうか?


今でも、思想の根底には、逃避がある。

今ではない場所。
今ではない時。
今ではない自分。

だから、夢を見る。
現実ではない世界を、リアルに感じてしまう。

なら、楽しい夢を見てればいいのに。
なぜ、死にたいなんて、思うのだろう?

楽しい自分より、苦しい自分の方が、
リアルだから?

楽しい妄想は、出来事や情景、一緒にいる誰か。
自分のことではない。

苦しい幻想は、ただ、自分に刺さる。
痛みに目が向けば、自分のことだけ考えられる。
誰かのせいとか、あれがあったからとか、
理由を探すのは、その後だ。

なによりも、自分に注目する。
注目されたいのだろうか?

誰が?
自我なんだろうな。やっぱ。

自分に固執している。
注目して欲しい。
自分を見て欲しい。
構って欲しい。
愛して欲しい。
必要として欲しい。

そんな我執が、「死にたい」という言葉を生み出して、関心を惹きつけようとしている?

死んだら、楽になるとでも思ってるのかな?
死後の世界なんて、なんの確証もないのに。

甘いな、我が自我よ。
そもそも、死を選べると思ってるとこ。

不幸だという主観だけで、
死にたいと思い詰めることができる。
自分への執着、自己愛の重さったら…

死にたいのだから、執着なんかないと思っていたけれど、逆なんだね。

現実には執着していないのかも。
できないんだろうな。
頭の中にある夢の世界に固執しているから。
それだけでいい。むしろ現実なんかいらない。

執着しているのは、世界観。
その世界を創り上げた私という存在、かな?

自分の世界を現実に押し付けることで、
私の存在を証明しようとしていたのかも?

生きていられないほど、不安だったから。
だから、余計に自分の世界を守ろうとした。

世界を失うことが、「死」だった。
自我にとって…?

なら、死にたいという声がしている間は、
自我は元気なのか。よかった。
欲は捨てられないもの。
自我が死んで、無欲になったら、
寿命も尽きてしまう気がするしね。

なので、私を殺したかったら、
先に自我が死んだらいいんだよ。

それに、命に関しては、私たちの管轄外だ。
生死は、私たちが決めることじゃない。

命が選べるものなら、
とっくに死んでいただろうし、
生きていて欲しいと望まれる人は死なない。

そもそも、死ぬ勇気も、
死をも辞さない愛情もないんだからさ、
死ぬまで、惰性で過ごそうよ。

この命の価値が証明できなかったとして、
それがなんなの?

そもそも、どうやって証明するつもり?

お金?
美貌?
地位?
名誉?
誰かからの賞賛?

全部ないけれど、死ぬほど努力して今から手に入れることができたとしてもさ、証明できないじゃん。全部、比較だもの。

なら、やめよう。疲れるし、現実は理不尽だし、不幸になるだけだったじゃん。

存在しちゃってるんだから、
理由なんていらなくない?

ないものを手に入れるために頑張るのではなく、
今の自分でもできる程度のことをやるくらいでいいんじゃないの?

当然やるもんだ、なんて狂気の思想に支配されて、やりたくもないことをやりすぎて、感覚がおかしくなってるだけかもよ?

自分の存在を証明しようとして、到達不可能な目標を立てて、実力以上に頑張って疲れ果てて、なにも得られずに、自分を嫌いになる。
悲しいし、哀れだし、ただ愚かだ。

感情がネガティブに張り切るわけさ。

逆なんだよね。
存在を証明しようとしなければ、無茶な目標も努力もいらない。成果が上がらない自分にガッカリすることもない。

できないことをできるようになることは、確かに嬉しいけれど、ポジティブな感情の総量からしたら、できることを沢山やることの方が効果的だろうしね。

楽だから、あんまり大きな喜びはないけれど…
やって当然というジャッジがあるからかな?

調子にのるなと怒られたけれど、心の中で喜ぶくらいさせてあげたらよかった。妙なところで、マジメないい子だったんだよね。
素直でおバカというか…


生きるとか死ぬとか、
考えても仕方のないことは、命に任せよう。

やれることやって、
怒られたら謝って、
そんな程度に惰性で生きたらいい。

ただ、やりたいと思ったことを、
常識的な配慮から諦めることは、やめる。

それが、ネガティブを生み出すもとだから。
自分のためだけでなく、世のため、人のためにもなると思えるなら、やってみる。

あれは、信念だったのかな?
自分が信じていることを諦めたから、自分を嫌いになったのかも。今の自分ではない夢想に浸り、現実と敵対した。

いいと思ったら、結果を考えずにやっておく。
それが、迷惑かどうかは、
相手にしかわからない。
一般論が全ての人に当てはまるわけではない。

失敗して生きるんだな。これからは。
怒られて、バカにされて、陰口を叩かれて、迷惑をかけて、謝って、平謝りして、一つ一つ、学んでゆく。

やってみる。

そう思い至って現実をみたら、
やることだらけだったりするんだよね。

詰まるところ、それかな?

死にたかったのは、やらなきゃならないことだらけの現実から、逃げたかったのかも。

 fumori 


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