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性格は、ジャッジと表現。

自分のことが、嫌いらしい。

大嫌いな自分が、私自身だと気付いてから、
ずいぶん経った。好きとは言えないまでも、
嫌いではないつもりでいたのに…

気分は安定のダウナーですし、
前向きな発想は浮かばないし、
ポジティブになれる習慣とやらを試しても、
呆れるほど効果が薄い。

アファメーション も、感謝の言葉も、
日光浴も、深呼吸も、瞑想も、
ここまで効果がないのは、おかしかろう?

そんな疑問を何度も繰り返し、
やっと心の外殻にヒビが入り、
赤く生々しいマグマみたいな自己嫌悪が
浮上してきたという訳です。

なれるものなら、好きになりたいものよ。

そんなことを思っている自分に、驚いた。
いつもなら、自己嫌悪の原因を掘り起こして、
対策を考えるはずなのに、
嫌いだから、好きになりたい…?

そんな当たり前の単純な発想が、
私には、当たり前ではなかった気がする。

赦して欲しい。愛して欲しい。
そう熱烈に望んだけれど、
自分を好きになりたいなんて、
願ったことが、あったっけ?

自己嫌悪をなくす方法ばかり考えて、
自分を好きになる方法を考えたことは?

好きになれるはずがない。
それが、前提だったのかもしれない。

根深い罪悪感がある。
赦されることも、愛されることも、
認めることはできなかった。

好きになることを、本心が拒んでいた。

ただ、このところ、赦せる自分が増えてきた。

自分を赦すことができなかったのは、
人として望ましくないという価値観に
縛られていたから。

性格は、ジャッジと表現で決まるもの。

いい性格があるのではなく、
全ての性質を私たちは備えている。

望もうと、望むまいと、与えられている。
好ましくない人間性を
隠すことはできても、無くすことはできない。

それを、逃げとか、努力不足だと判断して、
なくそうとしてきたから、
自分が嫌いになったような気がする。

できないことを、できると思い込んでいた。
やろうとしたら、失敗して、落ち込んで、
できない自分を断罪する以外になくなった。

できるが前提だから、失敗になる。

できないが前提なら、
したいという意志と、
どうすればできるかという挑戦しかない。

失敗ではなく、
意志を持ち、挑戦する自分になりたいのなら、
できることを当たり前にしないこと。

人としての弱さを、
自分だけの問題にしないこと。

もともと人間には、
全ての性質が備わっている。

忌み嫌うような人間が存在するのではなく、
誰でも持っている忌み嫌うような人間性を
表現するから、忌み嫌われる。

私たちにできることは、
なにを表現するかを選ぶこと。
人間性そのものをなくすことはできない。

自分のことを、
ズルくて、弱くて、わがままだと思っている。
人と比べると、その傾向が強いから。

けれど、性格は、ジャッジと表現。

自己表現をする中で、相手がそう感じたら、
ズルイ人、弱い人、わがままな人になる。

私が、表現しないように努めても、
相手がそう感じたなら、そういう人になる。

表現を変えることで、一時的に相手の心象を
よくすることはできるかもしれないけれど、
操作し続けることはできない。

理想の自分を演じていたということは、
他者の心象を操作することだったんだな。

求めていたのは、操作ではなく、
好ましくない人間性を隠すこと。

自分を赦せないのは、誰もが与えられている
人間性を拒絶しているから。

最初からズルイ人が存在しているのではない
のかもしれない。
ズルさを表現することに味をしめ、
やめられなくなるから、
選ばなくても無意識に表現するようになる。

当たり前になった自己表現が、
性格になるのかな?


私たちは、望むような人間にはなれない。
望ましいと思う表現をして、
そう思ってもらうしかない。
意図した通りに思ってもらえたら、ラッキー。

あくまでも、他者目線なんだよね。
なら、どんな性格かなんて、
考えても無意味なのかも。 

むしろ、好きな人には、望ましい対応をして、
嫌いな人には、冷たい対応を選ぶというのは、
とても人間的な気さえする。

相手が決めることなのだから、
付き合いたくない人には、
冷たくするのは効果的なのかも?

なんで私は、誰にでも望ましい対応を
していたんだろう?

嫌われたくないから。
自分を嫌っていたから?

自分の代わりに、
誰かに好きでいてもらいたかったから。

そりゃ、嫌われる反応も多くなるよね。

問題は、私がどうこうではなく、確率。

嫌われたくないという望みは、別にいい。
けれど、嫌われている人から、
好かれようとするのは、大変なこと。

相手としては、付き合いにくいから、
距離を置きたいと思っているのに、
距離を詰められれば不快だろうし、
迎合なんかされたら、たまらないだろう。

それをよしとする人は、
利用できるとか、都合がいいとか、
メリットを見出しているのかもしれない。

もちろん、最初の印象と違って、
案外、いい人だったと思い直すことも
あるだろうけれど、それを求めたら、
利用される可能性も高まってしまう。

自分の中にある善良な部分を表現して、
食いついて来なかったら、放っておく。

そうすれば、自分にフィットする人とだけ
付き合えば良くなる。 
これまで距離を取っていた人でも、
キッカケがあれば仲良くなれるかもしれない。

ナチュラルでいたら、よかったのかな?

全員と仲良くしなければ、
なんて野望を抱いて、誰にでも寄って行くから、
当たりのキツさや、不快な対応が増える。

そういう構図に陥っていたわけだ。
なるほど。
気づいてみれば、ものすごく単純。
そりゃ、そうなるのオンパレードだ。

気づかなかったのは、
自分が嫌いだったから。

人とうまく付き合えないことを、
自分の性格のせいだと、思い込んでいたから。

性格を変えればいいなんで、
勘違いしていたから。

誰とでも仲良くするものと、
思っていたから。

性格は、ジャッジと表現。

誰もが共通の人間性を持っている。
どの性質を表現するかは選べる。
合わなそうな人とは、距離を取る。
失礼にならなければ、それで十分。

性格を直すことは、できない。
好ましくない性質は、表現されないだけで、
誰の中にもある。

なにを表現するかを、今、常に選ぶ。

選ぶことなく、
無意識に反応するようになったら、
性格になるので、気をつける。

自分に性格なんかない。
あるのは全ての性質。能力。

だとしたら、自分を嫌いになることなんて、
できなくない?

嫌な性質はあるけれど、
赦せない性格なんか、存在しないのだから。

赦してはいけないのは、無自覚の反応。

あ。それかも。

表現を選ぶのではなく、仲良くすると決めて、
偽善者を演じ、それなのに嫌われるなんて…
と、無意識に反応してきたから、
赦せなかったのかもしれない。

自分が嫌いだったのは、
考え方が間違っていたから。

前提とか、信念とか、
自分が大切に思って、
信じきっていることが間違ってるから、
自分を嫌いになるのかもしれないな。

そのくらいインパクトがないと、
気づかないってことかな。私の場合。

この仮説をベースに、
自分を嫌いにならずにいられたら、
いつか、自分を好きになれるかな?

自分を好きになるために、命を使ってみたいな。

 fumori 

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