見出し画像

必要な価値観と手放す価値観の境界線について。

物事には、二つの側面がある。
メリット、デメリット。
正誤。善悪。好嫌。快不快。

それを決めているのは、価値観。
過去の情報と経験に基づいて、
自動的に判断される。

そのジャッジにより、
感情も自動的に生成される。

ポジティブか、ネガティブかは、
価値観によって自動的に判別されてしまうので、
ポジティブに生きたいのなら、
ジャッジの基準となる価値観を変えればいい。

そう思っていたのだけれど、
「今を刻む命には全部ある」
という価値観を採用すると、
世界の見え方が変わってくる。

私が思い描いていたのは、
左右対称のバランス。

一つの現象から生じる二つの解釈は、
点から始まり、円を描いて、
鏡のように左右に広がってゆく。

太陰太極図のように、
白と黒、陰と陽が全く同じ分量になる。
ポジティブとネガティブは同じだけ存在する。

それは、多分、その通りなのだけれど、
全てが今にあるのなら、「ないもある」
ことになってしまう。

太陰太極図が相殺し合って、
なくなった状態があるという意味だとすると、
じゃあ、それってなんなんだ?

それが、光であり、命であり、愛であり、今。
そんな結論に達したわけです。

死んだら今を感じる思考もなくなるので、
今は、絶対的なもの。常に生きている状態。

その相対性に縛られない「ないもある」状態。
その状態を感じるとしたら、なんだろう?

全肯定。
相対的に発生した全ての感情がMAXにあって、
相殺し合って、なにもなくなって、光になる。
感情が色のついた光とするなら、
全てを重ね合わせたら、白になる。
クリアなただの輝き。

絶対を相対的な言葉で表現することはできないのだけれど、敢えて置き換えてみるとしたら、
喜び、微笑み、ファンファーレ、そよ風
そんな感じ。

修復済みの宗教画みたいな艶やかな色彩。
むやみやたらに至福な感じ。

至福感だな。

ってことは、
私たちの命は、そもそもスーパーポジティブ
ってことになるわけです。

なにもしなければ、ずっとポジティブでいられるはずなのに、価値観があるから、ネガティブを味合わされている。

とは言え、価値観がなかったら、なにも選べないし、生きては行けない。 

どの価値観を残して、
どの価値観を手放したら、
望むように生きられるのかな?

幻想とは言え、
ネガティブな感情は必要最低限にしたい。

なら、必要最低限の価値観ってなんだろう?
どこで判断したらいいんだろう?

ネガティブな感情
→価値観
よくない、正しくない、あってはならない
→ジャッジ
→そのジャッジは、必要?妥当?

例えば、犯罪は、無条件に許せない。
犯罪をネガティブに感じられなくなったら、
相当ヤバい。なので、必要な価値観。
犯罪と犯人を別にできたら、理想だけど。

人を傷つける。人を騙す。人を陥れる。
そういうのは嫌だ。見たくない。

それが許される世界に生きていたくない。
だから、嫌な気持ちになることは、必要。

なら、手放した方が楽に生きられる価値観とは?

自分を守りたい。立派に見られたい。
好かれたい。人より優れていると思われたい。
バカにされたくない。

つまりは、エゴが揺らぐこと。
せっかく築いた素敵な自己像が壊されること。
だから、許せない。

エゴが揺らいだ時も、
こんな世界は間違ってると感じていた。

けれど、エゴは不要だ。

どうしたら、見分けがつくのだろう?

ネガティブな感情を引き受けても、手放してはいけない価値観、必要と思える価値観がある。

けれど、言語化された感情は、同じだった。
許せない。怒り。
こんな世界は間違っている。

自分か、人か、かな?

主語が自分の時の怒りや悲しみは、エゴ。
人が主語の時は、必要?

一概にそうとは言えないか。
人が傷ついているとか、想像でしかわからないし、自分と同じように考えたら、それはエゴ的発想ってことになっちゃうし…

わかってたことは、自分が傷ついたからって、我を忘れてしまうような価値観は、なくていい。
自分に関することは、ない方が楽なので、手放せるだけ手放した方がいいのかも。

どれだけやり尽くしても、
全部を手放すことは難しいかだろうし。

人が絡んだ時は、どうしたらいいんだろう?

人が傷ついたと感じた時は、
自分のエゴが傷ついた時だ。

自分のエゴを庇おうとするから、
相手からしたら的外れな言動をしてたのかな?

つまり、私の中にエゴがある限り、現実をリアルに認識することなんてできないってことか。

相手がどう思っているかも、
自分のエゴが基準になってしまうから。

なら、できるかぎり人のことには口を出さず、
自分のエゴに集中する。

他者の悲しみや苦しみに同情しようと思うのは、
私のエゴがそれを求めているからだとしたら、
同情してもらいたがる気持ちをやめれば、
同情する必要がないことだとわかるようになる。
ってことかしら?

コミニュケーションって、難しい。

人付き合いがうまい人は、人を主語にしても自分のエゴが発動しない人ってことなのかな?

神じゃん。もはや。

そんな尊き存在になろうとしていたわけね。
不遜だったわ。私。

羨ましがってないで、
コミニュケーション上手な人々を敬おう。

人を主語にして考えたり、行動し続けていたら、エゴは肥大化できないので、価値観がどうのこうのと考えなくても、相手に必要な対応が自然にできるようになるんだろうな。

道徳って、そういうことだったのかも。

結局、植えつけられた最初の価値観とかって、結構重要みたいなことになってしまったことが、なにより不本意です。

疑わずに、素直に信じて、実行していたら、
こんなに悩む必要なかったわけかよ。もう。

 fumori 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?