ココロと命は、二つある。
意を"こころ"と読むらしい。
心の音と書くくらいだから、
心音。鼓動。脈拍。
波動とか言われるものかもしれないけれど、
私にはその感覚がよくわからない。
気になって調べてみたら、
意の成り立ちは、音の心ではなく、
言から派生した文字らしい。
諸説あるようだが、
言は、聞こえる声。
意は、聞こえない声。
言は、神への祈り。
意は、神からのお告げ。
ココロの声が聞き取りにくいのも、
自分のものとは思えないのも頷ける。
許して。愛して。死にたい。
自覚がないのに聞こえてくる幻聴に、
ここ数年ビビっていたけれど、
それが自分の本心だったと気づき、
認めつつも不思議に思っていた。
心の声とは、少し違う気がしていたから。
心は、もっと身体から派生する。
感覚的なもの。
感情とか、情動とか、
自分では制御することが難しい。
見守るしかないというか。
それに、思考が巻き込まれると、
まんまと流されて、我を失う。
心は厄介だ。
そう思っていたのだけれど、
ココロが、二種類あるとしたら…
神のお告げかはさておき、
"意"が、人としての本質とか、理を示すもの
だとしたら、これほど頼りになる指針はない。
ココロには、
心と意、二つの"こころ"がある。
人と神ということなら、命も二つだ。
"いのち"と"みこと"
生命としての命。
日本の神さまの呼称。
身体由来の、心と"いのち"
精神由来の、意と"みこと"
身体は、地。精神は、天。
そして、私たちの命は、
天と地の境に存在する。
地上って、地球の一部だと思っていたけれど、
既に天とのボーダーなのかもしれないね。
天と地、肉体と精神、
神と人が混在している地上。
そこに、命は存在する。
心を持つ肉体と、意を聴く精神。
人としての命と、神意を知る命。
一つの読みと、二つの文字。
二つの読みと、一つの文字。
人心と、神意。
"いのち"と"みこと"
私たちは、二つの対極を内包する。
生命として生きるか。
神の器として生きるか。
どちらもあって、どちらも選べる。
混在しているからこそ、自由でいられる。
そんな世界なのかもしれない。
…
なんて綺麗にまとめてみたところで、
本音トークと参りましょう。
あれほど願ってきた自由だけれど、
地上での選択肢が、
神さまとか、天界にまで及ぶとなると…
手に余ると言うか、ちょっと面倒。
なんて思ってしまいました。
素直に生きるって、そういうことでしょ?
fumori
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