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私たちは無意識に、本音を現実に反映し続けている。

自分とはこんな人。
それを価値観と呼んできたけれど、
価値観は私ではなかった。

成長するために、時代とともに、
書き換えるものと思ってきたけれど、
変える必要なんてなかった。

価値観は、ただの言葉。
言葉なので、解釈次第。
いくらだって言い逃れできる。

私の価値観は、その程度のものだった。

私たちは、命であり、全てある状態。
たぶん、愛とか呼ばれているもの。

価値観は、愛を測る尺度なのかもしれない。
全てある状態であることを知るためには、
不足感を知る必要があるから?

誰かと比較して苦しむのも、
愛を知るためだった。
…と思えば、少しは気が晴れる。

比較しなければ、
比較できない存在を認識できない。

「全てある状態」か当たり前だから、
不足に目が向くのかもしれない。
努力なしで与えられているものを、
才能とは気づけないように。

比較によってない状態を経験しないと、
全てである愛は、認識できない。

認識するためのツールが、言語。

私たちは、言葉によって洗脳されてきた。
教育も、躾も、世間の常識も、
社会人としてのマナーも、
私のためなんてものは、ひとつもない。

守らなければと感じるもの全ては、
私以外の価値観だ。

もちろん、自分全開で、
好き勝手に生きていたら、
周囲を不快にさせるだろう。

多様性の時代とはいえ、
他者を傷つけたり、実害を及ぼすまでの
個の自由は、愛を越境してしまう。

自己愛と周囲の自己愛。
愛は全てを赦すけれど、
自己愛は許さない。

共通する愛を与え合う場が、社会。

自分と社会との境界にあるもの。
その線引きが、価値観。

だから、自己と同一化する必要もなければ、
絶対に死守しなきゃないないもの
なんかではないはず。

社会では、今、こういう考え方が主流だよ。
最低限、コレを守っていれば、
誰かの恨みを買うこともなく、
楽に生きられるよ。
幸せに暮らせるよう。

そんな処世の知恵、苦労しないようにと願う
親切心だったんだろうな。
今にして思えば。

苦しまないようにという願いが、
苦しみの原因になってしまうのだから、
不思議だな。
願いが逆に作用する。

誰が悪いわけでもない。
むしろ、親切な人が周囲に多い
恵まれた環境だったのかもしれない。
辛い目に合わないようにと思って、
教えてくれただけだったのかもしれない。

悪いとするなら、幼い私の勘違い。

守らなからばならないものだって、
思い込んだから。
そのくせ、守りきれなくて、
痛い目にあったり、逆恨みしたり。
私に合わないルールばっかの世界を
憎んでみたり。

不幸や苦労なんかしない方がいいと思う。
性格、歪むしさ。
けれど、もともと歪んでいたから、
矯正されたのかもしれない。

どこかで魔に捉われてしまったのかな?
その後遺症を世間の荒波が揉みまくって、
洗い清めてくれたのかも。

だとすると、
救いだったりするかもしれないんだよね。
苦労や理不尽が、
愛の輪郭を浮かび上がらせてくれた、とか?
ま、これも解釈だけど。

言葉によって、洗脳され、
言葉によって、洗心される。​

言葉の効力は、
凄まじいし、素晴らしい。

だからこそ、言葉ではなく、この身を使って、
やれることが全てなんじゃないかとも思う。

言葉は、力。
自分を抑える為にも、
乗り越える為にも使える。

支配されるのではなく、使役するもの。
言葉からなる価値観も思考も、
使いこなすためのものなのかもしれない。

誰に?
愛に、かな。たぶん。

自己愛たちの、境界線。
互いの自己愛を尊重し合う距離感。
深入りしないための、メジャー。

社会的な価値観は、
自己愛に囚われず、
愛を送り合うためのものなのかも。

限りない命を知り、限りあるこの身を尽くす。

お寺に貼り出されていた言葉。

言葉によって洗脳されてきたけれど、
言葉によって導かれたことだってあった。

転生なんか望まないし、信心深くもないけれど、死について深く考えていたら、体と共に全てが消滅するって自分の考えに耐えられなくなった。
恐怖しかなかった。

なので、人生のゴールである死を受けれるため、命なり、魂なりは、肉体が尽きても、存続するということにした。逃避上等。
だって、死後の世界のことなんか、
誰も立証できないんだから。

何を信じるかは、個人の自由です。
他者に強要しない限りは。

ただ、やりたいことがないっていうのも、
その後遺症なのかもしれない。

命が無限なら、焦る必要はない。
全てあるんだからね。愛には。
なんにもやらなくても、
幸せなんだよね。精神的には?

満たされた今に居続けることは、難しいけれど。

精神が満ちているなら、
不幸なのは体だろうか?

日々、年老いて、衰えてゆく。
気づいた時には、老けてる。怖。

焦っているのは、期限のある肉体。
何もできなくなる前に、
できることをしたい。

なにを?

…できることなら、なんでも??

体の願いはシンプルだ。
動くことができれば、いいってこと?

運動したり、お風呂に入ったり、よく眠ったり…
本能を満たせば、満足っぽい。

じゃあ、焦っているのは、誰?

自我とか、思考?
彼らも、肉体と共に消えてしまう幻想。

だがしかし、
彼らの願いは、見栄とか、他者目線だよ?
承認欲求が薄れた今、
そんなもののために頑張りたくはないけれど…

自我のプライドを満たしつつ、
愛のあることをすればいいのか。

愛が言葉を使役できるなら、
自我もプライドも思考も言いなりだもの。

世のため、人のため。
できることなら、
自分のためにしたことで、
喜んでもらえてるといいな。
楽だし、みんなハッピーじゃない。

みんなではないか。
感性が近い人だけか。

それでも、ネガティブなヴァイブスと
やらを振りまくよりは、よさそうじゃない?
合わなくても、少なくとも害はなさない。

心弾んだり、高揚感を得られるものって、
今のところ、私個人のことに限られている。

世界平和を望むほどのパワーはないもの。
先ずは、自分。
溢れるほどのパワフルさを取り戻す。
ゼロ地点に立つ。無敵状態でいる。

その上で、なにしよう?

具体的になにをやるかより、
なにを伝えられるか、かな?

楽しさ。嬉しさ。面白さ。
知らないことを知る楽しみ。
興味のあることに触れるドキドキ感。

なにこれ!!

そう言いたくなる、
笑い出したくなる気持ち。

愛の中にあるそんな気持ちを、
表現できたらいいね。

私たちは、生まれながらの表現者だ。
これまでは、
心の中にある不機嫌を表現してきた。
今度は、逆のベクトル。

何をやるかじゃなくて、何を表現するか。
この体と愛を使って、できる表現をする。

私たちは、
心の中の内的世界を、現実に反映している。

引き寄せって、
意図してやるものじゃないのかも。
無自覚にやってるし、そうなってしまうもの。
逃れられない法則かもしれない。

怖いのは、思っていることではなく、
本音が反映されてしまうところ。

つまり、心根が拗ねて、腐っていると、
そりゃもう理不尽な現実を生きる羽目になる。
私みたいに。

なので、意図するより先に、
心の歪みとか、穢れとか、腐敗とか、
そっちをなんとかしないと、
人生が危うくなる気がする。

現実が厳しいから、
幸運を引き寄せようとすると、
逆効果なのかもしれない。

心が疲れている時は、
引き寄せとか信じない方がいいのかも。
信じなければ、作用しないから。

言葉によって、守られるはず。


ということで、
今はさほど心が腐ってはいなそうなので、
繕わずに愛を表現してみようかな。

やりたいことが見つからないなら、
愛を表現すればいい。
隣にいる人を笑わせるくらいのことは
できるだろうしね。

本能を満たして、
この世界の誰か一人を笑顔にできたら、
今日生きる価値としては、十分じゃない?

世界平和の前に、足場を固めよう。
私の生きる現実は、
世界ではなく、今いる場所。

心を腐らせず、
地に足をつけて、
高揚感や楽しみを見出して、
誰かを笑わせよう。
誰かと笑っていよう。

そんな一日になるといいな。

 fumori 

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