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怖いもの。

死。老い。人。

死は、存在が消える恐怖。
老いは、存在していたはずなものが、失われれてゆく恐怖。
人は、存在を否定する。

存在が消える。失われる。否定する。
恐怖とは、存在を脅かされることなのかもしれない。

死は生きている限り怖いだろう。
そして、人を変えることはできない。
変えられるのは自分だけ。

考え方を変えることで、恐怖を乗り越えられそうなのは、老いだけだ。

老い、切ない。
当たり前にできていたことが、できなくなる。
あったはずのものが、指からこぼれ落ちてゆく。
楽しかった記憶すら、消えてゆく。
人生が、時間が、記憶が、存在していたはずの自分が、どんどん減ってゆく。

これらは、誰にも止められない。

ただ、老いを恐ろしいと思うのは、老後の資金や、病気の心配や、交友関係や狭さや、生きがいを見出せずにいること。
私はどう生きて、どう死んでゆくのかが、ブレているからだと思う。

その根本にあるのは、老人は悠々自適の老後を過ごすという理想モデル。
けれど、私には、リッチな老後なんてない。死ぬまで働かないと飢え死にしかねない。

皆と同じ老後が過ごせない。
マイノリティの老後を思って憂いていたけれど、よく考えてみたら、私を不幸にしていたのは、老後の理想モデルという思い込みだった。

今のシニア世代の生き方を真似しようと思うから、気が滅入っていたのだけれど、人生100年時代に、定年したら年金で暮らすなんて私たちの世代が求めている生き方ではないのかもしれない。

もちろん、年金で悠々暮らせる人は、そうしたらいい。できない人は、働き続ければいい。
今のように50歳を過ぎたら、就職が難しいという時代ではなくなってゆくだろうし、多様性が認められるようになれば、性差だけでなく、年齢や年代で人を縛ることもなくなるだろう。

ということは、雇用に際して、年齢がネックになることもなくなるだろうし、生きたい時代を選べるようになるのではないかしら?

多様性な社会になれば、当たり前がなくなるわけだから、どれほど時代錯誤でも、自分が信じる価値観は尊重されるだろう。

昭和の価値観でも、生きようと思えば生きられる時代になるのかもしれない。
その時に、私はどの価値観を、時代性を選ぶのだろう?

長年培ってきた昭和な価値観だろうか?
社会人として身につけた平成的なもの?

どちらも、過去だ。
過去の価値観を採用しているから、老後が不幸になってゆく。
どうしたら、望む老後を選べるのか?
どんな老後を思い描くのか?

これまでにない価値観を、私たち自身が創り上げてゆく。もしかしたら、既にそんな時代なのではないだろうか?

私が選んでいい。決めていい。
与えられた人生を生きなくていい。
望むままに創り出していい。

年金で暮らせないから、食うために働き続ける。
命ある限り、社会に居場所がある。クリエイティブに生きてゆく。

どちらも同じことなのに、思い込みを取っ払ったら、俄然、楽しそうな老後になった。

年老いてまで働きたくない。

それは、老いに対して、ネガティブなイメージしかなかったから。
働いて、誰かに、社会に求められること。
認められること。

働くといっても、やりたいことをやっているのかもしれないじゃない。

だとしたら、優雅に暮らす老後より、幸せかもしれないじゃない。

社会をネガティブに捉えているから、生きることが不幸と感じてしまうのではないだろうか?

社会には、私には見えていない素敵な老後があるのかもしれない。

ポジティブ設定で、この世界を眺められるようになれたら、老いも楽しみになったりするのかな?

当たり前に与えられてきたものを失っても、未来を信頼して生きられたら、それ以上の幸せはないのかもしれない。

望む老後を考えてみよう。


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