希望の光が消えれば、足元に明かりが灯されていることに気づくだろう。

なぜ、死にたいと思うのか?
なぜ、生きたいとは思えないのか?

そんな長年の疑問に答えが出た。

今あるものは、願えない。
ないものしか、願えない。

願望は、言葉。
言葉には、
相対的なもう一つの意味が宿る。

ないものしか願えないということは、
願わないものは、あるということ。

何より失いたくないものは、
案外、願ってさえいないものだった。
なんていうのは、よくある話。

幸福の青い鳥は、
探している限り見つからない。
求める場所にはいないから。

雑然とした無意識に紛れている。
当たり前の中に羽を休めている。

外ではなく、内側。
ないものを願い、あるものに気づく。

それが、願望のルール。

死にたいという願いには、
なにが含まれているのだろう。

あるものは望めない。
なら、死にたいは、死なないという確信。

いつかは死ぬとしても、今は死んでいない。

今にはない死を願うのは、
今、生きていることを実感するため。

明日死ぬとしても、今は生きている。
死んでないなら、生きている。
死ぬ直前まで、生き続ける。

私が望んでいたのは、
死ぬことではなく、生きている実感。

願望ではなく状態。
言葉ではない現実。

死んでいない実感。
生きている状態。

今に気づくこと。


あるものは願えない。
なので、生きることは願えない。
すでに、生きた状態にあるから。

生を願うには、明確な死が必要になる。
死の淵にいない私には、
生きることなんて願えない。

そこまで死を意識して生きていない。
度胸もない。

死はゴールだけれど、
明日、終わるとは思わない。
いつも通りの今日を終え、
明日の朝、目覚めることを疑わない。

生きていることを当然と思っている。

何かを為している人は、
そこがリアルなのかも。

残された時間に敏感だから、
やりたいことをやり切るために、行動できる。

やらざるを得ないのか、
やりたいことがあるからなのか、
リミットへの意識が高い気がする。

自分の時間、人生、命を
有効に使おうとする。

そんな生き方に憧れていた。

私には、やりたいことがない。

楽に生きることに人生を賭けてきたので、
何も身についていないし、
出来ることもさしてない。

可能性が次々と閉ざされ、
未来に期待できなくなって、
夢が見れなくなって、
逃げ場がなくなって、
強制的に現実と向き合わされて、
うんざりしているところ。

こんな年になって、
現実に放り出されても…

これからを生きることが、
面倒臭くて仕方がない。

それが、本音。


今だって十分面倒なのに、
衰えていくばかりの身で
生きてゆかなければならないのだから、
未来に期待なんてできないよ。

死にたいという思いは、
そんな絶望感から生まれたのかもしれない。

未来に暗幕が引かれ、
希望の光が閉ざされ、
世界から光が失わた。

見渡す限りの絶望の暗闇。
けれど、足元だけは明るい。

暗くなったから、灯したのではない。
ずっと足元は照らされていた。

先にある光を見ていたから、
その輝きが眩しすぎたから、
今ある場所が暗く感じただけ。

明かりがあることに気づかないほど、
希望の光は輝いていた。

けれど、
理想や期待や憧れで煌めいていなければ、
現実は仄暗く、今いる場所は、十分に明るい。

手に入らない幻の光は、
昼と夜を作り出す太陽。

明るく、活動的で、気分を高揚させる。
その代わり、
自分以外の光を消し去ってしまう。

太陽の功罪。願いの代償。

諦めることで、日は陰り、
月と星が輝き始める。

星も月も、見えないだけ。
昼間だって、そこにある。
いつだって、瞬いている。

たぶん、幸福論なのだけれど、
どこかしらネガティブなのは、
挫折が必要だから、かな。

言い訳できないくらいポッキリ折れないと、
夢や憧れや理想は手放せないから。

未来の可能性というやつは、
とてつもなく魅力的だから。

本当に望んでいるものは、
未来への執着を手放した先にある。
そんな気がする。

死にたいという願いは、
生きている実感を得るため。

死の恐怖を知ることで、
生きている今に安心するため。

欲しかったのは、安心感。

変化や未知は不安を煽る。
なのに、この世界は無常で、
変わらないものはない。

自分でさえ、無自覚のまま変わってゆく。
勝手に成長し、留まりたくても衰えてゆく。

そんな不安な現実を生きるために、
頼れる何かを探していた。
場所。もの。人。
何でもよかった。
安心できれば、なんでも。

ものには頼れず、
人にも頼れず、
自分を頼るしかなくなった。

揺ぎない自分。
自分軸。

方法論は豊富だし、
こんなに苦労しなくても
手に入ると思っていた。

今の自分ではない自分になれたら…

小さな成功体験とやらも、
結局は不足を補うためのものになっていた。

上部だけのHOWTOでは、
頼れる自分にはなれなかった。

何かをしたことで得られる安心感は、
できなくなったら不安に成り代わる。

私が欲しい安心感は、
努力の対価では足りない。
もっと強力なもの。

病や老いで身動きが取れなくなっても、
死ぬことが確実で、余命が僅かだとしても、
誰かに迷惑をかけることになっても、
それでも、生きている今に安心できる。

生きることに罪悪感を抱かずに済むくらい
根源的なもの。

どんな人間であるか。
何を持っているか。
何ができるのか。

そんな条件や比較ではない、絶対的なもの。

それが、今、生きていること。
死んではいないということ。

生きている限り、
死んだ後のことはわからない。

死ぬのは怖いけれど、
死んだ後、恐れることはない。

肉体と共に自我は消滅するなら、
感情を感じられるのは、死ぬ直前まで。

命が尽きた後、恐怖を感じることはできない。

だから、死んでないのなら、安心。
生きている今に、安心していればいい。

死にたいと願うことで得られるもの。

死を願うことによってもたらされる恐怖が、
今は生きているという安心感を生む。

死は決定事項なので、決してなくならない。
最初から組み込まれた設定。

死がある限り、いつか必ず死ぬ限り、
私たちは、今、生きていることを実感できる。

絶対のない世の中でも、
死んでなければ、生きている。確実に。

生きているという確実性に、安心できる。

なくなることも、失うこともなく、
生きている限り、ずっと安心。


変わらないものを頼りにしたかった。
世の中は、絶えず変わってゆくから。
変わることは、不安だから。怖いから。

時代も、社会も、他人も、自分も、
みんな例外なく変わってゆく。

そんな世界で、唯一、変わらないもの。
それが、今、生きていること。
死ぬ直前まで、生きていること。

それが、命として生きる
たふじん、そういうことなのだろう。

 fumori 

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